街中の小社。瑞花寺の西隣。 舒明天皇11年、百済川辺の子部神社の木を伐払って九重塔を建て百済大寺としたが社神が恨んで堂塔を焼失させたという。 式内の大社であったとは思えない小社である。 飯高町376の子部神社(螺贏神社)の北東100mにあり。 子部神社(飯高町372)子部神社(螺贏神社=飯高町376)は両社とも、古代氏族・小子部氏(チイサコベ)に係わる神社で、通常は、東側にある子部神社(飯高町376))を以て式内・子部神社とするが、明治12年神社明細帳には、「当社は延喜式所載二座の一にして、・・・」と、両社共に式内社で、両社に一座ずつを祀ると記している。 |
子部神社 近鉄大阪線真菅駅の北方1.2km、飯高集落西方、瑞花院西隣に鎮座する。小子部命・武甕鎚命・経津主命・天児屋根命・姫大神・素盞鳴命・斎主命を祀る。創建年代は明らかでないが、貞観元年(859)正月27日に神階従五位上に昇叙と『三代実録』に出ているばかりか、天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起並流記資材帳』に、舒明天皇の11年、百済川辺の子部社の木を伐りて九重塔を建て、百済大寺としたが、社神が恨んで堂舎を焼失させたという。百済寺は当社西方約2kmの現広陵町大字百済説が一般的であることからすると遅くても天平19年以前に当社が創祀されていることになる。但し百済大寺については異説もある。 小子部命は『日本書紀』雄略天皇の祭りに「螺贏に命せて、国内の蚕を聚めしめたまふ。ここに螺贏、誤りて嬰児を聚めて天皇に奉献る」とあり。嬰児を蚕と違えた螺贏に賜りて養わしめられたので、「嬰児を宮墻の下に養す。依りて姓を賜ひて小子部連とす」とある。『新撰姓氏録』左京皇別に「小子部宿禰、多朝臣同祖。神八井耳命之後也。大泊瀬幼武天皇御世所遺諸国。 取 蚕児。 誤聚小児貢之天皇大晒。 腸小児部連」とある。明治24年(1891)の明細帳には祭神を子部大神とし、境内三社の春日四紳と八社の素戔嗚命と厳島社の市杵島姫命をまつると届出、昭和の『宗教法人法による届出書』は前記した七柱神を祭神と届出ている。『延喜式』神名帳では、『小部神社二座』として式内大社として登載され、月次新嘗祭に案上官幣に預かる神社としている。神宮寺は隣接する吉楽寺瑞花院は考えられるが、俗に飯高の御堂とも呼び、本堂は室町中期の建築で国の重要文化財。 例祭は10月18日。 奈良県史 |
子部神社二座 並大月次新嘗 子部は假字也○祭神子部氏祖歟〇飯高村に在す、(大和志)〇三代實録、元慶4年10月20日庚子、先是彼大安寺三綱申牒称、昔日聖徳太子創建平群郡熊凝道場、飛鳥岡本天皇遷建十市郡百濟川辺、施入封三百戸、曰百濟大寺、子部大神在寺近側、含怨屡焼堂塔、天武天皇遷立高市郡夜部村、号曰高市大宮寺云々、○姓氏録(右京神別下)子部、火明命五世孫建刀米命之後也、 神社覈録 |