寺川の西南岸に鎮座する。社叢の目立つ神社である。 仁徳天皇の御世、大和国十市郡刑坂川の辺に竹田神社ありと新撰姓氏録に記載されている。 『多神宮注進状草案』によれば本社は多神社の若宮とされている。 本社の左手にある大日堂は神宮寺の跡という。弘治元年(1555)に南都宿院仏師源次・源四郎父子によって作られた大日如来坐を安置する。この像は昭和54年に盗難に遭ったが、その後無事もどってきた。 境内に大伴坂上郎女の歌碑が有る。 うす渡す竹田の原に鳴く鶴(たづ)の間なく時無しわが戀ふらくは |
竹田神社 近鉄耳成駅北東1.5km、東竹田集落の西北隅に鎮座する。明治26年(1893)の『明細帳』には道臣命とあるが、昭和27年(1952)の『宗教法人法による届出』には天香久山命とある。「姓氏録」の左京神別に「竹田川辺連、 火明命三世之孫、 建力米命之男竹田折命之後也。 仁徳天皇御世、 大和国十市郡刑坂川之辺有竹田神社。 因以為氏神。 同属住焉 緑太美。 供御箸竹。 因茲賜竹田川辺連」とあり、仁徳天皇の御代以前に竹田氏が祖神の火明命をここにまつって氏神としていたので、川辺連の本貫地に創祀されたことになる。延喜式内社である。『大和志』に「今称三十八社」とある。大同3年(808)五月甲甲安部真直と出雲連広貞等に詔して撰せしめられたと『川乃反薬』『太計太薬』『楚武川薬』について同連家に世々伝わる秘方が記されている。例祭は10月25日。かっては旧暦7月15日に松明祭が境内で実施されたが、今廃絶している。 奈良県史 |
竹田神社 竹田は多氣多と訓べし○祭神竹国川辺連祖歟○東竹田村に在す、今三十八社と称す、(大和志、同名所図会)、○姓氏録、(左京神別下)竹田川辺連、火明命五世之孫建刀米命之男武田折命之後也、仁徳天皇御世、大和國十市郡刑坂川之辺、有竹田神社、因以為氏神、同居住焉、緑竹大美、供御箸竹、因茲、賜竹田川辺連、 連胤按るに、和名鈔、(郷名部)川辺(加八乃倍)とあるは此刑坂の川辺なるべし、 神社覈録 |