耳成山口神社
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   【延喜式神名帳】耳成山口神社(大 月次/新嘗)大和国 十市郡鎮座
           目原坐高御魂神社の論社でもある 参照耳成山口神社

   【現社名】耳成山口神社
   【住所】奈良県橿原市木原町490
       北緯34度30分53秒,東経135度48分22秒
   【祭神】大山祇命 高皇産霊神

       当社の祭神は大山祇神と高御産霊神、即ち山口神社としての祭神と目原坐高御魂神社の祭神とを合祀した形となっており
       祭神からでは、当社がどちらの式内社の後継社なのか判断することはできない

   【例祭】10月13日 例大祭
   【社格】大和の六の山口の神 旧郷社
   【由緒】天平2年(730)耳梨山口神戸『大倭国大税帳』
       天平2年(760)目原神戸『大和国大税帳』
       大同元年(806)「耳元神一戸」『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月正五位下『三代実録』
       以後の沿革は不詳である

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「耳成山天神宮」と称していた
   【社殿】本殿春日造。
       拝殿・幣殿・社務所・手水舎

   【境内社】金刀比羅神社・稻荷神社

耳成山八合目に鎭座する。
中世以降、当社は天神社と称し、耳成山も天神山と呼ばれていた。高皇産霊神が祭られていたからであろうか。
ほとんどの「山口」神社は山麓に鎮座している。当社のように八合目に鎮座しているのでは山口神社とは言えない。何かの理由で山麓から何時の時点でか上部へ遷座した(この事も珍しい事だが)のか、当神社はやはり天神社であって山口神社は別にあって既に失われてしまったのか。
 慶安4年(1651年)、山之坊村民が神木を伐り荒らした事件を発端に、入会をめぐる争論が続き、宝永2年(1702年)耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社とする事で決着した。 同時に山之坊村民は、神霊を山之坊山口神社に遷し、今日に至っている。
→山之坊山口神社を参照


耳成山口神社

創建とその経緯
創建の年代は定かではありませんが、正倉院の天平税帳に登場し、天平2年(730)に時の帝より、神戸(租税を神社に納める農民)および稲を給わったとあり、平安時代の延喜式神明帳にも大社として記載されていて、帝より月次・新嘗の二祭に預かったとされている。
貞観元年(859)9月、大八洲に大暴風雨があり、その時帝よりの遣使が参拝して風雨鎮めの祈願をしたと記されている。
しかし、後には何故か全く荒廃して、一時その所在すら判らなくなったが、寛延元年(1748)8月、耳成の郷中の氏子が、現在の神殿および拝殿の建立をして現在に至っております。
なお、拝殿には、近世からの絵馬数点と算額も掛かり、信仰の歴史を描き残しています

社頭掲示板



耳成山

名勝 大和三山 耳成山
  平成17年7月14日 文部科学省指定
 奈良盆地の南部に位置する、香具山【かぐやま】(152.4m)、畝傍山【うねびやま】(199.2m)、耳成山【みみなしやま】(139.7m)の三つの小高い山を総称し、大和三山と呼びます。香具山は桜井市の多武峰【とうのみね】から北西に延びた尾根が浸食により切り離され小丘陵として残存したもので、畝傍山と耳成山は盆地から聳【そび】えるいわゆる死火山です。
 三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖視され、その山中や麓に天香具山神社、畝傍山口坐神社、耳成山口神社などが祀【まつ】られてきました。また、皇宮【こうぐう】造営の好適地ともされ、特に藤原宮の造営に当たっては、東・西・北の三方にそれぞれ香具山・畝傍山・耳成山が位置する立地が、宮都を営むうえでの重要な条件にされたと考えられています。
 大和三山を詠んだ和歌は多く、重要な歌枕として鑑賞上の地位を確立したほか、近世の地誌、案内記、紀行文などでも紹介され、万葉世界を代表する名所として、広く知れわたるようになりました。
 耳成山は大和三山の中では最も低い山ですが、円錐状の整った秀麗な山容をしています。畝傍山と同じく瀬戸内火山帯に属する死火山で、浸食や盆地の陥没と堆積によって、現在の姿となりました。万葉集の中で耳成山が単独で詠まれる例はなく、他の二山とともに詠まれました。
耳成山を詠んだ万葉集
 香具山は 畝傍【うねび】ををしと 耳梨【みみなし】と
 相【はひ】あらそひき 神代【かみよ】より
 かくにあるらし 古昔【いにしへ】も
 然【しか】にあれこそ うつせみも 嬬【つま】を
 あらそふらしき
   中大兄皇子(巻一の13)
橿原市教育委員会 奈良森林管理事務所

社頭掲示板

耳成山 山口神社由緒

はじめに
本日はようこそ 御参拝なされました。この神社は 耳成山の八合目にあります。耳成山は大和三山の一つで 天香久山 畝火山と同じく 大和の名山であります。
分けてこの山は 二上山 若草山と同じく神代の噴火山でしたが やがてその活動を終え その後盆地の陥落などにより 元はもっと高かった その頭部がこのような笠形の端麗な山姿を見せ 古代から天神山と呼ばれ 仰がれて来ました。
標高は139.7mところが山麓で既に60mありますので 比高 凡そ80mの登山です
さぞかし 楽々遊山でお越し頂いたのではと拝察いたします。でも大変お疲れ様でした。
創建とその経緯
創建の年代は定かではありませんが 古く既に
※正倉院の天平税帳には 天平2年(730年)に時の帝より 神戸(租税を神社に納める農民)および稲を給わった とあり
※平安時代の延喜式神明帳(全国の神社一覧表)にも 大社として記載されていて帝より月次・新嘗の二つの祭典を仰せつかったとされている(岸根一正「奈良を学ぶ」)
※貞観元年(859年)9月 大八洲(日本全国)に大暴風雨があり その時帝よりの遣使が参拝して風雨鎮めの祈願をしたと記されている
※しかし その後何故か荒壞して 一時その所在すら判らなくなったが 寛延元年(1748年)8月 耳成の郷中(村の人々)の氏子が 現在の神殿(春日造り)および拝殿の建立をして現在に至っております。
※なお 拝殿には 近世からの絵馬数点と算額も掛かり 信仰の歴史を描き残しています。
(注)算額とは 和算家が自身が発見した数学の問題や解法を神社などに奉納した絵馬のことです
そして境内には 稲荷社 白龍社 金毘羅宮 なども祀られています
ご祭神
ご祭神は 高御産巣日神と大山祗神の二柱です  最初 この世界に現れた神は天之御中主神でその次に現れた神がこの高御産巣日神です この神様は神社本庁に登録の神の数3132座の中で最高位の神で 私ども日本人の元祖です したがって 他の神のような担当神でなく 元の産の親神として 安産 商売の祈願 一切の病気は申すに及ばず 何事も心次第でお聞き届け下さる有難き神様です
大山祗神は伊邪那岐【いざなぎ】 伊邪那美の二神が 国産みで生んだ 山の神・おおやまつみ(国つ神)で 山の恵みを司って 豊作豊漁をかなえて下さる神様です 現在この神社は周辺六町(新賀・木原・山之坊・石原田・常盤・葛本)の氏神として祀られています
ご参考
蛭石
神殿の前の榊の根元から 鼠の糞に似た珍しい土塊が出ます これを火であぶると ちょっとした伸縮運動が起こるので 蛭石と呼んでいます 指先で強く押すと ボロボロ細かくなって 昔から安産の妙薬と言われているそうです (金本朝一「大和三山の道」)
耳成池
耳無の 池し恨めし 吾妹子が来つつ潜かば 水は涸れなむ (万葉集)
(耳無の池は恨めしい あの娘がさ迷って来て水に入ったなら 水がかれて死ねないようにしてくれればよかったのに)
・・・耳無山の麓に住む蔓子という美女が 三人の男性から求婚され悩んだ末 池に投身することにより 男の間の争いを避けたという 残された三人はそれを悲しみ作った歌です
この耳無の池は 現在の耳成公園池ではなく山の西麓にありました (辰巳和余「こころの万葉風景」)
記念碑
明治41年に 陸軍特別大演習の時 明治天皇御野立所として山頂が使用され その記念碑が 山頂と南麓に建てられています
またのご参詣をお待ち申し上げますと共にご家族のご繁栄を祈願して
昭和48年10月 秋大祭に臨みて 竹村清一 記す。

社頭掲示板



山口(坐)神社

やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。
▽耳成山口神社 奈良県橿原市木原町。旧郷社。大山祇神・高皇産霊神を祀る。耳成山の南方山腹にある。『新抄格勅符抄』に「耳无神二戸」とある。嘉永7年(1854)奉納の算額が有名である。例祭10月13日。

神社辞典



郷社 耳成山口神社

祭神 大山祇神 高皇産靈神
本社創立年代詳かならす、俗に天神山と云ひ(国華万葉記和州旧跡與考)耳無山、新賀、北八木、石原、常盤、葛木、山坊等の氏神なり(大和志、大和名所図絵)聖武天皇天平2年神戸祖稲五十三束を以て祭祀の料に充て奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄せ(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より正五位下を授け、同年9月庚申雨風の祈に依て幣使を奉らる(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)凡毎年10月3日祭を行ふ(奈良県神社取調書)、式八(祝詞)祈年祭祀詞に、飛鳥云々、畝火耳無登御名者自氏云々、同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々、耳成山口社一座とあり、尚連胤の説に、当国に山口社都て十五社あり、其中に十三処は、祈年祭の幣に馬一匹を加ふれど、畝火耳成の二処は洩れだり、然るに又同祭の祝詞の六処の中には加はれり、如何なる数とも知がたし(神社覈録)と云へり、明治6年4月郷社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿、社務所等を具へ、境内2000坪(官有地第一種)、耳或山の頂にあり、耳成山は大和中央の平野に突起せる小丘にして、山中に梔樹多きを以てまた口なし山とも称し、(大和志)古今集に「みみなしの山のくちなしえてしがな思ひの色の下染にせなむ」など詠み、最も著名なる地たり、又其側に耳梨池或は耳梨川(一に目梨川とも云)等の名所あり、
耳なしの池之うらめしわぎもこがきつゝかくれば水は涸れなむ(萬葉集)
目なし川耳なし川の見ずきかずありせば人をうらみざらまし(六帖)

明治神社誌料



耳成山口神社 大月次新嘗

耳成は美々奈志と訓べし、山口は前に同じ、○祭神山神大山祇命○耳無山に在す、(大和志、同名所図会)○式八(祝詞)祈年祭祝詞に、飛鳥云々、畝火耳無登御名者白氏云々、」同三(臨時祭)、祈雨祭神八十五座(並大)云々、耳成山口社一座、○当國六処山口の一座也、事は飛鳥山口社の下見合すべし、
考証云、今俗云天神山、其称天神者山口神乎、○連胤云、常國に出口社都て十五社あり、其中に十三処は、祈年祭の幣に馬一匹を加ふれど、畝火耳成の二処は洩れたり、然るにまた、同祭の祝祠の六処の中には加はれり、如何なる故とも知がたし、
類社
当國高市郡飛鳥山口坐神社の下見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下耳成山口神正五位下、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国耳成山口神、遣使奉幣、爲風雨祈焉、

神社覈録



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