畝尾坐健土安神社
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   【延喜式神名帳】畝尾坐健土安神社(大 月次/新嘗)大和国 十市郡鎮座

   【現社名】畝尾坐健土安神社
   【住所】奈良県橿原市下八釣町136
       北緯34度29分57秒,東経135度48分56秒
   【祭神】健土安比売命 天児屋根命
       『大和志』天照大神
       明治24年「神社明細帳」は波邇夜須毘売命一座

   【例祭】9月28日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平2年(730)畝尾神戸『大倭国大税帳』
       大同元年(806)一戸神封『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)従五位上『三大実録』

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天照大神」と称していた
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・祀詞舎・社務所

   【境内社】

天香山の西北麓、奈良国立文化財研究所の北、畝尾都多本神社の東側に鎮座。
下八釣集落の東南隅に鎭座し、社地の南側の藪は若宮と称され、もとの鎮座地であつたという。
神武天皇即位前紀戊午年9月條に、丹生川上に於いて天神地祇を祭られた時に天香山社中の土を取って、天平瓮・嚴瓮を造ったとある、この地とされ、裏の赤埴山に、「埴安伝承地」の碑がある。
古来、天香久山の土は「倭国之物実」(崇神天皇紀10年9月條)として呪力あるものとされ、神聖視されていた。
江戸期には隣地の興福寺の管理下にあった。


【由緒】

神武天皇御東征の時、菟田の高倉山の嶺より大和の國中を望見されると、賊が充満してゐた。その夜、夢に天神の訓へとして、天香山社中の土を取りて、天平瓮・嚴瓮を造り、天神地祇を敬祭すれば、自然に平定するであらうとあつた。天皇は、権根津彦と弟猾を天香山に派遣し、その土を以つて、八十平瓮・天手抉八十枚・嚴瓮を造作り、丹生川上に於いて天神地祇を祭られた(神武天皇即位前紀戊午年9月條)。この天香山社中の土を祭られたのが本社であると考へられてゐる。古來、天香久山の土は「倭國之物實」(崇神天皇紀10年9月條)として呪力あるものとされ、神聖視されてゐたのである。

社頭掲示板



畝尾坐健土安神社

奈良県橿原市下八釣町にある神社。天香久山北西麓、畝尾都多本神社北隣に鎮座。祭神は健土安比売命・天児屋根命。近世に天照大神社と称したが、「延喜式」神名帳十市郡の「畝尾坐健土安神社大、月次新嘗」に比定(大和志)。旧村社。畝尾の訓について、「延喜式」金剛寺本はウネヒ、九条家本はウネヲとし、十市郡には畝尾都多本神社の名もみえる。「古事記」神代巻の「香山も畝尾の木の本」はウネヲと読むのが定説になっており、式内社の場合は香山のうねりをもった山の尾に鎮座する神と解釈されている。畝尾坐健土安神社は「日本書紀」神武天皇即位前紀己未年2月20日条に「天皇、前年の秋9月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、八十の平甕を造り て、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」とみえる埴安に鎮座した土霊とされる。天平2年(730)神戸の租稲九〇束のうち四束を祭神料に充てられ(「大倭国正税帳」正倉院文書)、天安3年(859)1月27日、従五位下より従五位上に昇叙した(三代実録)。また大同元年(806)に大和国に神封一戸を充てられた畝尾神は(新抄格勅符抄)、当社のことか畝尾都多本神社のことか明らかでない。なお「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午9月条に埴 土を取ったと記す「天香山社」は、同じく十市郡の式内社天香山坐櫛真命神社のことではなく、当社をさすとする説がある(大和志料)。神社と天香久山の間に赤埴山という小丘があり、埴安伝承地の石碑が建つ。「磯城郡誌」は「赤埴山。香久山の西北に接続し、全山赤色粘土なれば赤焼土器に適するならん。土人これを赤せん山と称し、香久山の中央西側は白色粘土なるを以て、土人これを白こと称せり」と伝える。
『大和・紀伊 寺院神社事典』より引用

社頭掲示板



香久山の土で祭器 神武の神事を再現

初代・神武天皇が香久山(橿原市)の土「埴(はに)」を使って祭器を作ったという神話に基づいて、同山から埴を採取する「埴採神事」が1日、営まれた。11月9日には採取した埴で形作った器を野焼きする「火入神事」を行う。
日本書紀によると、神武天皇は大和(奈良県)に向かう東征の際、夢の中のお告げに従い、臣下2人に老爺と老婆の姿に変装させて香久山の埴を取りに行かせた。その埴で祭器を作って全神々を祭り、天下を平定したとされる。
新元号の令和元年を機に、地元住民らでつくる実行委員会が「天香山埴焼奉製会」として神事を再現することにした。今後、毎年の開催を計画している。
埴採神事は「天香山(あまのかぐやま)神社」と「畝尾坐健土安(うねおにいますたけはにやす)神社」で行われた。
天香山神社では、地域住民2人が老爺姿と老婆姿に装った神武の臣下役を務めて参列。祭典後、造田哲也宮司を先頭に近くにある白い土「白埴」のご神地伝承地へ向かい、木製のすきを使って埴を採取した。
埴は「埴箱」に入れて神社へ持ち帰り、神前に供えた。
造田宮司は「天の香久山の土はすさまじい力があったと往古の人に認識されていた。令和元年を機に埴を採ることができたのはありがたいこと」と話した。
畝尾坐健土安神社の神事では、赤い土「赤埴」のご神地から埴を採取した。

奈良新聞 2019.10.02



畝尾坐建土安神社

うねびにますたけはにやすじんじや
奈良県橿原市下八釣町。旧村社。祭神は、建土安比売神・天児屋根命・『延喜式神名帳』に畝尾坐建土安神社(大。月次新嘗)」と見える。真弓常忠は、祭神(建土安比売神)を「日本書紀」の伊弉諾・伊弉冉二神より生れた埴山姫、『古事記』の波邇夜須毘売とされ、天香山神社に比定されている。『神武紀』の埴土採取の伝承を当社とする今井啓一の説を論駁している。例祭9月28日。貞観元年(859)従五位上を授けられた。(三代実録)

神社辞典



畝尾坐健土安神社 大月次新嘗

畝尾は宇禰哀、健土安は多氣波爾夜須と訓べし、○祭神明か也○下八鈎村に在す、今天照太神と称す、(大和志、同名所図会)、○日本紀神代巻上、一書曰、伊弉册尊、且神退之時、生水神、及土神埴山姫、又曰、大便化為神名曰埴山媛、又曰、土神號埴安神、』古事記、(神代段)次於尿成神名波邇夜須毘古神、次波邇夜須毘売神、また日本紀、神武天皇己未年、前年秋九月、潜取天香山之埴土、以造八十平甕、躬自斎戒祭諾神、遂得安定区宇、故號取土之処曰埴安

神社覈録



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