昭和42年に創建された神社であり、これを主張する説は存しない。 寛延年中に耳成山には「天神社 旧名 耳成山口神社」と「耳成山天神宮」の2社があった。「耳成山天神宮」は現在の耳成山口神社の地である。 山之坊町の氏神である当社は古くは耳成山上(耳成山口神社の地に耳成山天神宮として)に奉祀されていたが徳川の中期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の領地と定められ、当時の宮司佐伯丹後守が神霊を奉じて下山、その子孫の宅に奉祭して今日に至るとある。 この主張によれば当社が目原坐高御魂神社の継承社となる。 |
【由緒】 慶安4年(1651年)、山之坊村民が神木を伐り荒らした事件を発端に、入会をめぐる争論が続き、宝永2年(1702年)「耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社とする」事で決着した。同時に山之坊村民は、山之坊山口神社に分霊し、今日に至っている。また、享保年間(1716−35年)、木原と山之坊で耳成山をめぐって境界争いがあり、木原の所属となったので、山之坊の宮司が神霊を奉じて下山、現在地に祀った。 社頭掲示板 |