山之坊山口神社
やまのぼうやまぐちじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】目原坐高御魂神社 二座(並大 月次/新嘗)大和国 十市郡鎮座

   【現社名】山之坊山口神社
   【住所】奈良県橿原市山之坊町304
       北緯34度30分38秒,東経135度48分39秒
   【祭神】大山祇命
       『神祇宝典』『神名帳考証』『大日本史』『神社覈録』高御魂神
       『大日本史』一座不詳
       『多神宮注進状草案』天神高御産巣日尊・拷幡千々媛命
       『神祇志料』高皇産霊尊・拷幡千々媛命

       一座は、ゥ資料とも社名に記す高御魂命として異論はない
       残る一座については、@栲幡千々媛命 A日神 の2説がある

   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】
   【由緒】成務天皇5年に神託により創建された
       享保年間宮司佐伯丹後守が神霊を奉じて下山
       子孫の宅に奉祭して今日に至る

   【関係氏族】
   【鎮座地】耳成山口神社の地に耳成山天神宮として鎮座
        光明皇后と藤原武智麻呂夫人の牟婁女王が奈良の都に御遷座
        更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て
        嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子<檀林皇后>によって現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・社務所

   【境内社】

昭和42年に創建された神社であり、これを主張する説は存しない。
寛延年中に耳成山には「天神社 旧名 耳成山口神社」と「耳成山天神宮」の2社があった。「耳成山天神宮」は現在の耳成山口神社の地である。
山之坊町の氏神である当社は古くは耳成山上(耳成山口神社の地に耳成山天神宮として)に奉祀されていたが徳川の中期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の領地と定められ、当時の宮司佐伯丹後守が神霊を奉じて下山、その子孫の宅に奉祭して今日に至るとある。
この主張によれば当社が目原坐高御魂神社の継承社となる。



【由緒】

慶安4年(1651年)、山之坊村民が神木を伐り荒らした事件を発端に、入会をめぐる争論が続き、宝永2年(1702年)「耳無山天神ハ式内之社耳無山口神社とする」事で決着した。同時に山之坊村民は、山之坊山口神社に分霊し、今日に至っている。また、享保年間(1716−35年)、木原と山之坊で耳成山をめぐって境界争いがあり、木原の所属となったので、山之坊の宮司が神霊を奉じて下山、現在地に祀った。

社頭掲示板



大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録