神社の前で南北から東西へ曲流する小川を俗に目原川と称し、今は公民館及び製材所となつている社地の東の地を真目原として禁足地といわれ、その処に入ると足にマメができるという伝承があった。 本社は、江戸時代、その所在不明となっておりいくつかの論社がある。 この地は、もと小安明神が祀られていたところであり、子安明神は、高御魂神からきた信仰と考えられ、この地を式内社と考えてよいと思われる。 『大和志』・『神祇志料』・『磯城郡誌』・『式内社の研究』は当社を目原坐高御魂神社とする。 禁足地とされていた真目原にあった式内目原社を現在地に遷し、加えて天満天神社を勧請したものと思われる。 道路を挟んだ東側に「太田市町公民館」があり、真目原の地であろう。 |
目原坐高御魂神社二座 並大月次新嘗 目原は女波良、高御魂は多加美武須毘と訓べし、○祭神明か也○在所詳ならず 大和志に、或曰太田市村天神社即此、 類社 山城國乙訓郡羽束師坐高御産日神社の下見合すべし 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下目原高御魂神從五位上、 神社覈録 |