寺川の北岸、橿原市福祉センターの西に鎮座する。 北側には巾2m余の堀割があり、清流が道に沿って西流している。この堀割は、古来神聖視された様子で、人家の廃水は一切流入せず、別に汚水路が完備されているとのことであるが、一見は普通の用水路である。 この地は大和の六御県の一つで古くより皇室の御料地であった。 この地は十市県と称する前を春日県と称したとし、その県主である春日県主の女は綏靖天皇の妃となっており、古くよりの皇室との密接な関係が察せられ、神社の創建も建国当初にまで遡るものであろう。 この地は十市県主本貫地とし、中世から戦国期にかけて十市氏の本処は現代の十市集落であり、氏神としての本社に対する崇敬は厚かつたものと見られる。 南北朝の対立以降大和武士団の一つとして十市氏がこの地で勢力をふるっていた。 中世末には神宮寺東樂寺が存していた。 |
略記 御創建年代は不詳であるが,清和天皇貞観元年(859)正月27日,既に從五位上の神位を授けられており,高市,葛本,十市,志貴,山辺,曽布,と大和国六御県神社の一座として朝廷の尊崇篤く醍醐天皇の御代,延喜の制には大社に列し,祈年,月次,新甞の案上,官幤に預かる。また古くこの地方は朝廷の御料地であり,その守護神として蔬菜の生育を祈願せられ,庶民よりも農業の神として広く信仰をあつめ,後年俗に十三社明神と称された。 御神徳 豊受大神は,伊勢の高倉山の麓に鎮まります豊受大神宮とおなじ御祭神で天照皇大御神に対して御饌都神として食物を司ります。 神代に於いて,陸田種子,水田種子,蚕種子を創められ,国民にこの道を開かせ賜りし皇大神の御饌都神であらせられ,私たちの衣食住をはじめとして広く産業を御守護下さる御祭神で御神徳は普く国民の仰ぎ奉るところであります。市杵島姫命は厳島神社として元磯城郡耳成村大字十市字上ケ田(現十市町)に鎮座,大正5年9月3日本社に合祀される。 祭神は宗像三神で多岐都比売命,多紀理姫命の三女神の一神で水の女神と生まれ出で神仏習合には弁財天ともいわれる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
十市御県坐神社 十市御県坐神社由緒 御祭神 豊受大神 御由緒 御創建時代は不詳であるが清和天皇貞観元年(859)正月27日既に従五位上の神位を授けられたと記録にある。皇居が大和に在りし時高市葛木十市志貴山辺曽布と当国六御県神社の一座として朝廷の尊崇篤く醍醐天皇延喜の制に大社に列せられ祈年月次新嘗祭には案上に官幣を授かる、又古この地方は朝廷の御料地としてその供御の蔬菜の生育を祈願せられし如く農業の守護神としても広く崇敬をあつめ社頭は殷賑を極めた。 社頭掲示板 |
十市御縣座神社 鎮座地 奈良縣橿原市十市町壱番地 祭神 豊受大神 由緒 御創建年代は不詳であるが清和天皇貞観元年(皇記1519年 西麿859年)正月27日既に從五位上の神位を授けられており高市 葛木 十市 志貴 山邉 曾布と大和國六御縣神社の一座として朝廷の尊崇厚く醍醐天皇延喜の制には大社に列し祈年新嘗月次の案上官幣に預かる。 又古この地方は朝廷の御料地でありその守護神として蔬菜の生育を祈願せられ庶民よりも農業の神として広く信仰をあつめ後年俗に十三社明神と称された。 社頭掲示板 |
御県(坐)神社 みあがた(にます)じんじゃ 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる廿菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社ほ大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。 ▼十市御県坐神社 奈良県橿原市十市町。 旧村社。豊受大神・市杵島姫命を祀る。 『新抄格勅符抄』に「十市御県神二戸」とある。例祭5月5日。 神社辞典 |
十市御縣坐神社 大月次新嘗 十市は郡名に同じ、御縣は美阿加多と訓べし、〇祭神詳ならず〇十市村東に坐す、今十三社と称す、(大和志、同名所図会)、〇当国六御縣の一座也、事は高市御縣社の下に詳也、 類社 当國高市郡高市御縣神社の下見合すべし 神位 三代実録、貞親元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下十市御縣神從五位上、 神社覈録 |