久米寺の南隣接の地に鎮座する。 久米御県が置かれた時期については明らかでないが、垂仁天皇27年紀に「是歳屯倉(みやけ)を来目邑に興す」とあり、当社はかなり早期に鎮祭されていた。 江戸中期から明治初年にかけては、天神社・天満宮と呼ばれていたが、明治中期に至つて、古の久米御県神社に復した。 |
久米御県神社 久米御縣神社 橿原市久米町宮ノ谷 祭神 高皇産霊神(天地開闢の時、高天原に出現した神) 大来目命(大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神) 天むく根命(久米氏の祖神と関係の深い神) この神社は『延喜式神名帳』(927年)の「高市郡式内社小社」に載る「久米御縣神社三座」にあたる。 創建はあきらかではないが、来目(久米)に関わる伝承は『古事記』『日本書紀』の神代までさかのほり、神武東征の伝説に八咫烏(やたがらす)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、「大来目シテ、畝傍山、以西ノ川辺(かわのへ)ノ地二居(はべ)ラシム。今、来目邑と号く。」との記載がある。『日本書紀』(第11代天皇)垂仁27年紀」に「屯倉(みやけ)を来目邑に興す」とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる。 久米氏の退潮により神社も衰えたが、のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された。以後、平安時代から江戸時代まで、西座・東座・九月座の宮座が中心となり奉斎されてきた。明治元年(1868)、寺社の混同が厳禁となり、全面的に神社は久米村により奉斎され、創建当初の久米御縣神社と改めた。例祭は10月15日であったが現在10月の第二日曜日となっている。尚本殿に向かって左の境内社は誉田別命 天児屋根命 大日霊貴命を祀り、向かって右は熊野神社(伊奨冉命)を祀る。 また、境内地樹林のなかに臥龍石と称する巨石があり干ばつの時これを動揺すれば降雨あるとの伝説を伝える。 (注) 御縣(みあがた) 朝廷の直轄領 屯倉(みやけ) 朝廷の御田からの穀類を蔵する倉庫 延喜式神名帳 927年に朝廷の制度を記された書物。その中に全国の神名が記される。 社頭掲示板 |
久米御縣神社三座 久米は假字也、和名鈔、(郷名部)久米、』御縣は前に同じ、○祭神天穂津大來目命歟〇久米村に在す、今天神ど称す、(大和志、同名所図会)〇日本紀神代巻下、一書曰、大伴連遠祖天忍日命、師來目部遠祖天穂津大來目、背負天磐靭云々、立天孫之前遊行降來、」同紀、神武天皇2年2月甲辰朔乙巳、夫皇定功行賞、使犬来目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑此其縁也、○古事記(神代段)天津久米命、久米直等之祖也、 連胤云、当社御縣神とは申せども、六の御縣の神と別にして、月次新嘗の祭にも預らず、同名なれど異神なるを思ひまがふ事なかれ、 神社覈録 |