波多甕井神社
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   【延喜式神名帳】波多甕井神社(大 月次/新嘗)大和国 高市郡鎮座

   【現社名】波多甕井神社
   【住所】奈良県高市郡高取町大字羽内字アヅキ谷 235
       北緯34度26分12秒,東経135度47分3秒
   【祭神】甕速日命
       『大和志』天照大神

   【例祭】
   【社格】
   【由緒】護景雲4年(770)神封一戸『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日従五位上
       その後の史上には見えない

   【関係氏族】波多氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天照太神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

「甕」文字は『神名帳』では「瓦」+「長」。
羽内集落南方、奥羽内への途中の道ばたの小丘神林の中にある。
神社下方の小字井戸谷には大師井戸と称し、老杉に囲まれた清水がある、社名の甕井に推定される。



波多甕井神社

近鉄南大阪線市尾駅東南方約1.3kmの小丘陵上の森に鎮座する。
 祭神は明治の「明細帳」その他に甕速日命としているが、『大和志』や棟札などには天照大神を祭神とし江戸期の村文書に天照大神社(『高市郡神社誌』)と称している。波多甕井神は神護景雲4年(770)大和に紳封1戸を充てられ(『新抄格勅符抄』)、『三代実録』の天安3年(859)1月27日の条に従五位下から従五位上に昇叙されている。『延喜式』神名帳には式内大社として登載され、月次新嘗際には案上官幣に預った。
 当社に関すると考えられる波多氏は『新撰姓氏禄』によると四流あり、何れとも定め難いが、その住地波多多郷は檜前郷の南方で現高取町にあったと推察され、波多氏が鎮守としたのが当社でないかとみられる。
 神社の下方の字井戸谷に、大師井戸と称し老杉に囲まれた清浄水があり、『大和志』にも『有清泉闔村、所汲潤沢下田数頃』とあるが、社名の甕井に推定される。
 例祭は10月9日。『高市郡神社誌』によると例祭日の二日前、宮座の当屋は吉野川に身を清めて小石を持帰って輪状の注連に一個を釣り下げて甕井の杉の木に懸け、小石を井戸に浸したというし、御供の糯米をこの井戸で洗ったという。

奈良県史



波多甕井神社

波多甕井神社(はたみかいじんじゃ)と薬猟り(くすりがり)
天照大神を祀っていて、770年に創建され.859年に従五位上(じゅごいのじょう)に昇叙(しょうじょ、位が上がる)されました。
さらに、大宝律令の施行規則を制定している平安時代初期の延喜式という規則集の中の神名帳に記載されている神社(式内大社しきないたいしゃ)であり、高取町では唯一の式内大社として由縮ある神社です。往古は、広大な社地を有し、荘厳に余りあったと思われます。
日本書記、巻第22、推古天皇20年(612年)の箇所に夏5月’さつき)の5日(いつか)に、薬猟す。羽田(はた)に集(つど)ひて、相連(あいつらな)りて朝(みかど)に参趣(まいおもむ)く」という記事があります。
夏5月の5日に、波多甕井神社(はたみかい)周辺(現在の地名でいうと高取町大宇羽内(ほうち)辺りになります)で、壮大で華麗な宮廷行事として、鹿の若角をとったり、藁草の採取などを行いました。
薬猟の当日は、諸臣は冠位十二階の位に従い、服の色はそれぞれの冠の色と同しで、冠にかんざしを挿して正装して参加しました。ちなみに、一番位の高い大徳は、冠の色は紫、服も紫、かんざしは金を挿(さ)していました。大仁は、冠は青、服も青、かんざしは豹の尾を挿していました。
行事が終わり、諸臣は羽内に集まって一緒になって、朝廷に参上した。
たかとり観光ボランティアガイドの会

社頭掲示板



波多甕井神社 大月次新嘗

波多は前に同じ、甕井は美加為と訓べし、〇祭神詳ならず〇羽内村に在す、今天照太神と称す、(大和志、同名所図会)
神位
三代實録、貞観元年、正月27日甲申、奉授大和國從五位下波多甕井神從五位上、

神社覈録



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