土地では長く九頭神社又は九頭龍明神と称してきた。 この地は中世大和豪族の雄たる越智氏の本領であった。 九頭明神はその祖(越智氏)親家が戦場の守護神として之を尊崇し、元暦2年(1185)3月、平家を西海に討滅し、住地の越智に凱旋したときここに九頭神を祭つたとしている。 天正17年(1589)8月26日、一族の内訌に乗せられて滅亡するまで、23代・四百年間、毎歳、社頭の料を奉献したと伝えられている。 「大和誌」に「在所未詳」とあることから、近世期には在所不明の神社とされたが明治8年(1875)当社を天手力男命を祀る天津石門別神社と称すべき旨県より示達があり、社名を改め式内社とした。 本殿はなく、これに代つて祝詞舎の奥には高さ七尺の石垣上に榊の大樹があり、それを囲んでほぼ三間四方に、周りに盾を立てた様な形で板石数枚を立てめぐらせてある。 |
天津石門別神社 所在地 奈良県高市郡高取町越智字大西85 御祭神 天手力男命(あめのたじからおのみこと) 越智氏居館跡の西に鎮座。旧村社。古来九頭神社と称し、「越智氏系図」に元暦2年(1185)越智家の祖親家が戦場守護神として祀ったと記し、越智党団結の契機及び城館鎮護の神とされた。明治8年(1875)奈良県示達により「延喜式」神名帳高市郡「天津石門別神社」に治定され、社名も改称されたが根拠は不明。式内天津石門別神社は天石戸別神とも書き、貞観17年(875)3月29日、正五位下より従四位下に昇叙(三代実録)。式内社は近世まで所在不明で(大和志)、「五郡神社記」のみ忌部村(現奈良県橿原市)の忌部神社(式内天太玉命神社)に併祀と記す。なお「三代実録」貞観5年2月14日条に大和国の天津石門別稚姫神を従五位下より従五位上に昇叙したとあるが、天津石門別神社との関係は不明。当社には社殿がなく、板石を楯状にめぐらした玉垣中央に神体の榊が植えられている。里俗に九頭竜明神と称し、水神として祭祀されているが、自然崇拝の古い信仰形態を残しており、もともと九頭神(国津神・牛頭天王)を祀っていたものが語の類似により九頭竜となり、社名改変に伴って天岩戸を開いた天手力男命 を祭祀するに至ったと考えられる。なお「越智氏系図」には越智親家が胄の八幡座の九頭銀竜を安置。九頭上大明神といって奉祀したとの説話がみえる。 −寺院神社大辞典より− 社頭掲示板 |
越智氏 越智氏は、大和源氏の一族で高市郡に勢力をもち、中世を通じて筒井氏と並ぶ最有力国人であった。南北朝期には南朝に参じて吉野との結びつきが深く、河内畠山氏の内紛に関しては畠山義就方につくなど、常に反幕府の姿勢をとった。そのために幕府方の筒井氏とは対立関係にあり、一時は筒井氏を圧倒して大和国最強の国人勢力になったこともあった。春日若宮祭礼においては散在党の刀禰として参列し、党内諸氏との結びつきを生かして大和国各地への活動をみせた。 その本拠地が越智城であり、越智館とも呼ばれる。史料上の初見は「満済准后日記」の永享四年(1432)であり、以後の各史料に「越智城」の名で登場するが、実質的には居館である。越智氏の確かな初見は「細々要記」第二の康永二年(1343)であるので、越智の居館もその頃からあったものと推定される。居館の北東の尾根続きに詰城として貝吹山城が築かれた。 越智本願地における戦闘のあった時期は、史料上では応永五年(1398)、永享二年(1430)、永享三年(1431)、永享九年(1437)が挙げられるが、とくに永享九年は筒井氏との抗争があって高取城籠城戦の伝承もあり、幕府軍の介入によって越智氏が打撃を受けているので、現存の越智館や城砦の形はその頃までには成立していたとみられる。 http://blog.goo.ne.jp/gfi406/e/0fc366efd4a34ef6288d49b681eba947 |
天津石門別神社 天津石門別は阿麻都伊波止和氣と訓べし○祭神明か也○在所詳ならず〇古事記、(神代段)常世思金神、手力男神、天石門別神、云々、次天石戸別神、亦名謂櫛石窓神、亦名謂豊石窓神、此神者御門之神也、○姓氏録、(河内國神別)多米連、神魂命児天石都倭居命之後也、 類社 摂津国島下郡、美作國英多郡天石門別神社(各一座)近江国伊香郡天石門別命神社、陸奥國白川郡伊波止和氣神社、備前國御野郡石門別神社二座、 神位 三代實録、貞観17年3月29日壬子、授大和国正五位下天石戸別神從四位下、 神社覈録 |