平安時代初期に築かれた益田池(今はなく団地となっている)を東に臨む所にあつた。集落奥の崖淵に鎮座する。 当社の創立は不明であるが、神武紀2年には天皇が論功を行なつた時、大伴氏の祖道臣命を讃ヘ賞して「道臣命に宅地(いへどころ)を賜ひて、築坂(つきさか)邑に居らしめたまひ…」の地とされる。 古は道臣命の神府をここに造り、その祖先を奉齋したものと考えられる。祭神も高皇産霊神→天忍日命→道臣命→大伴氏の系譜が考えられ、祭神2座も上記の内の2柱であったと思われる。 |
鳥坂神社 近鉄橿原神宮駅西出口から1.4km、鳥屋集落の東に鎮座する。創祀年代は明らかでないが、『延喜式』神名帳に登載の鳥坂神社に比定されている。 祭神について『五郡神社記』に左、高皇産霊命・右、天押日命とあるが、『日本書紀』神武天皇の2年に天皇が大伴氏の祖道臣命の功を賞されて宅地を賜って築坂邑に居らしめたとあるが、道臣命はこの地に神符をつくって自らの二祖紳である高皇産霊神とその子の天押日命父子を祀ったのがはじめだという。「つきさか」とは「衝坂」または「桃花鳥坂」といわれたと『山陵志』にあり、今の鳥坂町付近を指している。『大和志』には当社が鳥坂村の東に鎮座、天照大神を祭神とするとあるが、概に江戸初期に天照大神を祭神としたことは、当社保存の棟札に「寛文元暦(1661)8月吉日天照皇太神宮」と記されていることでわかる。数年前まで当社に保存されていたという御湯釜にも「天照大神御湯釜 寛文13癸丑9月11日和州高市郡鳥屋村」と陽刻されていたという(高市郡神社誌)。それが明治以来祭神豊受比当スになり、明治の『明細帳』や昭和の『宗教法人法による届出書』の祭神名となった。『延喜式』神名帳に二座と記され、現在の本殿が二間社の形式を伝えている点からも、大伴氏の二祖紳を祭神とするのが至当でなかろうか。 高皇産霊神は国土経営に、その子天押日命は天孫降臨の際大功あり、道臣命もまた大伴部を率いて神武天皇の東征を授けて功績のあった神であることは、『記』『紀』に記されて明らかである。 例祭は10月16日の夜宮祭と17日の本宮祭のほか、3月11日の春祭、12月16日の算用祭がある。宮座は一座で、10月16日・17日に座祭りを行うが、千本搗や大注連縄の勇壮な神事で名高い。延宝9年(1681)以来の宮座文書も保存されている。 奈良県史 |
鳥坂神社二座 鍬靱 鳥坂は止利佐加と読り〇祭神詳ならず○鳥屋村東に在す、今天照太神と称す、(大和志、同名所図会) 類社 伊賀國山田郡鳥坂神社 神社覈録 |