この地は百済からの渡来した阿智使主(あちのおみ)の居住地跡といわれ、祭神は、その阿智使主夫妻。 この地は桧隈寺跡であり、塔・講堂などの建物跡が残っている。 檜前の東南の丘の上にあり、叢林があり、南側には平安時代後期といわれる檜隈寺社十三重石塔がある。 もとは社前の檜垣坂を隔てた西方(現在社務所の西方の旧地)にあったが明治44年(1911)に現地へ遷。 永く檜前寺の守護神とされていたと思われ、檜前寺の後身道興寺が神宮寺となっていた。 設立の時代はもとより詳にしえないが、『高市郡神社誌』の説によれば、宣化天皇が檜隈盧入野宮に治世せられたと見れば、その崩後を神社創立の頃と見ている。 境内に宣化天皇の檜隈廬入野宮跡の碑がある。 御神体は木像。夫神は一尺二寸、婦神は一尺一寸で共に座像である。 |
於美阿志神社・桧隈寺跡 桧隈は、百済から渡来した阿智使臣が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神とする。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡をのこす。「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名がみえ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重石塔は上層の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。 明日香村 飛鳥保存財団 社頭掲示板 |
史跡桧隈寺跡 講堂 講堂は昭和55年に、奈良国立文化財研究所によって発掘調査され、建物の大きさと構造が判明した。講堂基壇の規模は東西35.3m(120尺)、南北24.2m(72尺)、高さ1.2mである。基壇化粧には瓦積基壇を採用しており、後に玉石によって補修がなされている。 建物の規模は桁行29.4m(100尺)、梁間15.3m(52尺)の7間×4間の四面庇建物である。これは飛鳥寺や法隆寺西院伽藍の講堂に匹敵する大きさとなる。出土した瓦の年代から、講堂は塔と一緒に7世紀末頃に造られたと考えられる。この講堂のような瓦積基壇をもつ建物は近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られるが、飛鳥では初めて見つかったものである。 また、瓦積基壇は朝鮮半島に多く見られる基壇化粧であることから、檜隈寺が渡来系氏族である東漢氏の寺として建てられたことを物語っている。 社頭掲示板 |
於美阿志神社 近鉄南大阪線飛鳥駅から1.3Km、檜前集落東南端の丘陵に鎮座する。元桧隈寺跡で、『延喜式』神名帳に登載された式内社である。祭神は阿知使主神夫妻。阿知使主は後漢霊帝の曽孫で漢直の祖と伝え『続日本紀』の宝亀3年(772)4月20日の条に応神天皇の代に17県の民を率いて渡来、高市郡檜前に住したとあるが、之等一族が飛鳥・奈良時代のころ自らの租神を旧地にまつって、我国の敬紳崇祖の風に模倣したと考えられる。彼等はさらにこの地に僧舎檜前寺を営んだが、当社はその鎮守社であった。『大和志』に記されている道興寺は檜前寺の後身で、この寺の寺僧が当社の祭祀を掌っていた。寛政4年(1792)9月8日付御湯釜の銘に「御霊大明神御湯釜大根田村檜前村氏子中敬白」とあるが、江戸のころ御霊神社とも称したことがわかる。社殿はかって現社務所の西方旧地にあったのを、明治40年(1907)金堂跡の現在地に遷座した。当社例祭は10月9日で、宮座には大講と新講がある。境内に国宝建造物の石塔婆があり、元檜前寺塔跡の中心礎石の上にあったが、近年石塔の改修の最中心礎は移動して保存されている。塔の造立は平安後期といわれ、石造塔で現在十一重。 奈良県史 |
於美阿志神社 於美阿志は假字也〇祭神詳ならず○檜前村に在す、(大和志、同名所図会) 神社覈録 |