曽我川の西北岸にあり、小社で社叢も浅いが良く目立つ。式社の表示はない。 この地は昔、南から曽我川が幾曲りしつつ流れ、雲梯集落の南方から古川と言う細流が本流より分かれ、集落の西側を通つて、北方の忌部村の田を潤していた。この細流は古代からのものであるから、この川股近くにあつた社が則ち当社であろう。 川俣公の租彦坐命を主として、その族類神を齋つたものと思われる。 中世以来、荒廃に帰し、古伝を逸し、神佛混淆の時に僧房が建設せられ(初穂寺)、一隅の小祠を鎮守とし、本来の祭神に代つて木花開耶姫を勧請し、両部に祭つて冨士権現と称した。 同じ雲梯町に鎮座する河俣神社(式内高市御坐鴨事代主神社に比定)との間に混乱が見られ、当社が木葉神社と称した経緯不詳。 |
川俣神社三座 並大月次新嘗 川俣は加波末多と訓べし○祭神川俣公祖歟○雲梯村に在す、今川股八王子と称す、(大和志、同名所図会)、○姓氏録(大和国皇別)川俣公、彦坐命之後也、 考証云、鎌田村、今属葛上郡、鎌田村川俣之訛、 神位 三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下川俣神從五位上、 雑事 三代実録、元慶6年5月2日癸卯、大和國司言、管高市郡從五位下天川俣神社樹、有鳥巣、産得四雛、其一雛毛色純白、 神社覈録 |