境内は村道の南に突出した小丘上にある。社域は狭い。 古事記の大長谷若建命(雄略天皇)の項に「呉人を呉原に安置きたまひき」とあり、この地域に呉人が多く住し、その祖神を祀る。 本殿は二社並んで鎮座し 向つて右が木花咲耶姫、左が天児屋根命とする。 境内右手社壇に近い末社が鎮守神社と呼ばれ、呉津彦神が祀られ「これこそ本社古來の本祀たるベき神である」(式内社調査報告)。 他の資料では呉津彦神は主神ではないが「全国神社祭祀祭礼総合調査」では主神となっている。昭和末から平成にかけて祀られたか? |
呉津孫神社 近鉄南大阪線飛鳥駅の東南約2Km、栗原集落の丘陵上に鎮座する。主神が木花開耶姫命で、相殿に天児屋根命を祀る。『延喜式』神名帳に式内社として登載されている。栗原はかって呉人の移住した呉原で、『新撰姓氏禄』左京諸審上に「牟佐村主。呉孫権男高之後也」とあり、同右京諸審下に祝部・工部は共に「呉国人田利須須之後也」とあり、『日本書紀』雄略天皇の条に、14年正月13日に身狭村主青等が呉国の使と共に呉国に使いして呉国の奉った手末の才伎漢織・呉織・衣縫をひきいて帰ったが、これ等呉人を桧隈野にはべらしめたのでここを呉原と名づけたとある。当社はこれ等呉人の租紳を祀った神社と考えられる。 『大和志』に「在栗原村、今称下ノ宮」とある。本来は呉氏の租神の呉津彦命にほかならぬが、何時のころからか上記二紳を祀る社となった。宮座講の宝暦3年(1753)の御湯釜の銘にも「和州高市郡栗原村八幡宮春日大明神御湯釜」とある。『高市郡神社誌』に「現今境内神社に鎮守と称せる小祠あるは、蓋し当社の名残ならん歟。宜しく呉津孫神を主神となし、其の他の諸神を配祀すべきなり」とある。 奈良県史 |
呉津孫神社 呉津孫は久礼都比古と訓ベし○祭神、明か也〇栗原村に在す、今下宮と称す、(大和志、同名所図会)、○日本紀、雄略天皇14年正月丙寅朔戊寅、身狭村主青等共呉國使、將呉所献手末才伎漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、是月、為呉客道通磯歯津路、名呉坂、3月命臣連迎呉使、即安置呉人於檜隈野、因名呉原、以衣縫兄媛奉大三輪神、以弟媛爲漢衣縫部也、漢織、呉織、衣縫、是飛鳥衣縫部、伊勢衣縫部之先也、」姓氏録、(未定雑姓摂津國)牟佐呉公、呉國王子青清王之後者、 神社覈録 |