岡寺の西方尾根の上に鎮座する。 社内の敷地に礎石があり、白鳳時代の瓦が出土することから、もともとはこの地に岡寺の伽藍があったようである。 岡寺所藏の古図には当社の敷地付近に、金堂・塔などの旧地を記している。このことからすれば、当社は岡寺の移転後、此所に鎮座したことになるが、その経緯などは判明しない。 現社頭より東方の山嶺に「天神山」「天神祠阯」と呼ばれる所があり、あるいは現社は天神山より降つたかとも考えられるが不詳。 『五郡神社記』に「治田神社一座在逝回郷小治田村(今云豊浦村)」と見える。逝回郷は豊浦寺南方の飛鳥川左岸一帯を指すとされる。それによれば、当社は現在の明日香村豊浦付近にあつたことになるが、その位置については判然とはしない。 治田神社は治田氏の祖先を奉祀したものと考えられ、その祭神は彦坐命であつたかと考えられる。 文安(1444〜49)の頃には大己貴命の別名たる大地主神を奉祀したものと考えられる。何時の頃よりか又更に社名を八幡宮と称して応神天皇を祭り、明治になつてからは治田神社となつたが、祭神依然とし応神天皇を主神として、他に二柱を相殿に併祀して今日に至つている。 |
治田神社社 祭神 例祭10月1日 豊穣講 9月15日 新嘗祭 12月初旬 由緒沿革 当社の創立はその年代詳らかざれども延喜式内社なれば平安朝以前の社であることがわかる。もと治田氏の神々を奉祀され、文明時代に一時大国主命の和魂である大物主を奉祀されたことが古書にあります。 更に社名を八幡宮と称して品陀別天皇を奉祭し岡村字城山の八阪神社を併合して今日に至っている。 社頭掲示板 |
治田神社 所在地 奈良県高市郡明日香村大字岡字治田 祭神 応神天皇 素盞鳴尊 大物主命 行事 元旦祭 1月 早苗饗 6月 豊穣講 9月 秋祭 10月 新毅祭 12月 由緒沿革 当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳の式内社とされているので、平安時代(10世紀)には社があったことがわかる。さらに当境内地からは凝灰岩の基壇や礎石、瓦が出土することから、8世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内に祀られでいた可能性がある。この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。 元々は治田氏の祖神が奉祀されていた・文安年間(1444〜48)に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。 さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。 社頭掲示板 |
史跡 岡寺跡 岡寺(龍蓋寺)は儀淵僧正によって建立されたと伝えられている寺院であるが、創建当初の伽藍は、仁王門の西方、ここ治田神社境内にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われている。また、古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。昭和57年には橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基壇建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。その他の建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661〜1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている。発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される。 社頭掲示板 |
治田神社 鍬靱 治田に波留多と訓べし○祭神治田連祖歟、○岡村に在す、今八幡と称す、(大和志、同名所図会)、○姓氏録、(左京皇別下)治田連、開化天皇皇子彦坐命之後也、四世孫彦口命、征北夷有功効、因割近江国淺井郡地、賜之為墾田地、大海真持等、墾開彼地以爲居地、大海六世之後、熊田宮平等、因行事、賜治田連姓也、 類社 信濃國更級郡治田神社 神社覈録 |