軽樹村坐神社
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   【延喜式神名帳】軽樹村坐神社 二座(並大 月次/新嘗)大和国 高市郡鎮座

   【現社名】軽樹村坐神社
   【住所】奈良県橿原市西池尻町178
       北緯34度29分7秒,東経135度46分42秒
   【祭神】誉田別命
       本来は彦座神と白髪王の二座であろう

   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       貞観18年閏4月7日從五位上に進階
       明治41年10月告示村社

   【関係氏族】軽氏
   【鎮座地】ながく所在が不明であった
        「大和志」が「在池尻属軽子邑(中略)社今廃」と記して以来、復興して式社に治定。

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】近世まで八幡宮と称した
   【社殿】本殿春日造両袖付トタン屋根葺
       拝殿

   【境内社】

高取川南西岸近く。岡の北端叢林の中に鎮座している。
「軽古」と呼ばれる場所で、昔は軽氏の拠点として栄え、当社も、「大社」であった。
いつしか八幡神を奉祭するようになったが、本来の祭神は、軽氏祖神である彦座神・白髪王の2座である。
誉田別命、即ち応神天皇、更に八幡神を奉齋するに至ったのは、軽氏の一族は橿原市見瀬町の東部にある大軽町と関連があると見られ、この地に応神天皇の大軽豊明宮の存した事と何等かの関係をもつのではないかと見られる。
式社としてはながく所在が不明であったが、「大和志」が「在池尻属軽子邑(中略)社今廃」と記して以来、復興して式社に治定。


軽樹村坐神社

近鉄南大阪線橿原神宮西口下車、軽古集落の森の中に鎮座する。創始年代は明らかでないが『延喜式』神名帳の式内大社として登載されている上、『三代実録』の貞観元年(859)正月27日の条に従五位上に昇叙されていることから、平安初期以前に概に祀られていた上、延喜の制で大社に列していた格式が高かった古社であることがわかる。しかし世の推移と共に漸次衰退して、江戸時代には一時荒廃したことがあったが、後に再興されて漸く現状のようになった。『大和志』に「在池尻属軽子邑」としながら「即此社今廃ス」と享保末(1736)頃の当社の荒廃振りを記している。『延喜式』神名帳に祭神二座とあることについて『五郡神社記』に彦座神と白髪王と記している。『 姓氏録』左京皇別下に「彦座之後世孫白髪王。初彦坐命 未賜阿弥古姓。 成務天皇御代賜軽地三千代。 是負軽我孫姓之由也」とあるところから軽氏の祖先を祀る宮と考えられる。『万葉集』巻第11の2656に「天飛ぶや軽の社の斎槻 幾世まであらむ陰妻そも」とは当社の社頭にうっそうと繁茂した槻の古木に寄せて詠んだものであるが、後世退転して変遷を重ね、祭神さえもいつからか時流にならって八幡紳を祀る宮となった。
例祭は10月14日。

奈良県史



輕樹村坐神社二座 並大月次新嘗

軽樹村は加留古牟良と訓べし〇祭神詳ならず○池尻輕子村に在す、今廃亡す、(大和志、同名所図会)〇姓氏録、(左京皇別下)輕我孫、治田連同組、彦坐命四世孫白髪王之後也、初彦坐命末、賜阿比古姓、成務天皇御代、賜軽地三十千代、是負軽我孫姓之由也、」同、(山城國皇別)輕我孫公、治田連同祖、彦今簾命之後也、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下輕樹村神從五位上、

神社覈録



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