『日本書紀』に「大海人皇子軍が金綱井(橿原市今井町・小綱町付近)で戦った時、高市県主許梅に身狭社の生霊霊が懸かって勝利に導いた。」との記載がある。生霊神を祀った社を現在の生国魂神社とする説がある。即ち式内社の牟佐坐神社の論社である。このあたりまでを身狭と称したと言う。 大正7年頃からの集落大移転に伴い、大正9年に現在地に遷座 |
生国魂神社 祭神は生国魂神と咲国魂神で旧村社。創祀について『高市郡神社誌』は当社棟札に「寛文八歳(1668)九月吉日」の銘があると記しているが、遅くとも17世紀中葉ごろ概に創建されていたことになる。しかも当初は畝傍山の北麓に近い中腹の字垣内207番地にあったが、大正6年から7年にかけて集落の大移転に伴い、同9年10月10日現在地に遷座したという。二柱の祭神は天疎降臨の時従った32紳の中の神で、『古語拾遺』では、大八州の霊とされ、八十島を領く神として神武天皇の代、鎮魂の八柱神と共に祀られ、高台より大地を見下ろす位置に坐して、国鎮の神とあがめられた。あたかも大阪の生国魂神と同じく、もと畝傍山山腹から西方大和の平地を鎮める神として祀られたに違いない。 例祭は10月12日。 奈良県史 |