岡寺駅の西。高取川を渡つて境内に入る丘の上の神社。 この地は孝元天皇の軽境原宮趾伝説地となつている。 創始は安康天皇の頃、牟佐村主青の経営する所で、祭神は生雷神(雷公)としている。 日本書記天武紀に、高市県主許梅への神がかりの中で「吾は高市社にいる、名は事代主神なり、また、身狭社にいる、名は生霊神なり。」とある。 社名・祭神の変遷はかなりあり、江戸時代享保の頃には榊原天神と称し菅原道真を祭神とし、慶応4年(1868)のものには天児屋根命を祭神とし、明治に至り古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀し社名を改めた。 |
牟佐坐神社 祭神 高皇産霊命,孝元天皇 例 祭 10月9日 新年祭 1月8日 月次祭 毎月9日 由緒沿革 日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御代牟佐村(現見瀬町)村主 青の経営であった。 当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。享保の頃に菅原道真公を祭神としたが明治に至り古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。 境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている。 社頭掲示板 |
牟佐坐神社 近鉄南大阪線岡寺駅の線路を越えた西側の小丘陵上の森に鎮座する。鎮座の地、見瀬はムサの転訛だと本居宣長が言っているが、身狭(『紀』)・牟佐(『紀略』・『続紀』)とも書く。『紀』天武天皇元年(672)7月の条に壬申の乱の戦闘中、高市郡大領県主許梅の神懸りにしたがって戦勝したとの記事に「吾は身狭社に居る名は生霊神なり」「神大和磐余彦天皇の陵に男及び種々の兵器を奉れ」「吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて遷る。今もまた官軍の中に立ちて守護りまつる」とあり、「高市・身狭二社の神を礼ひ祭る。」とある。当社の禰宜宮直君述が文安3年(1446)に書いた『五郡神社記』には、牟佐神社は牟佐村築田にあり、祭神は生雷神で、旧記によると安康天皇の代牟佐の村主青によって創祀されたと記している。『三代実録』の貞観元年(859)正月27日に従五位下から従五位上に進められている。『延喜式』神名帳では式内大社として登載され、月次・新嘗・祈年三祭には案上官幣に預かる由緒ある古社であった。しかし『大和志』に今榊原天神と呼ぶとあるように、享保21年(1736)『大和志』編集当時には古の祭神や所伝を失って時流に追従し、菅原道真を祭る天神社と呼ばれるようになっている。しかも天保13年(1842)の棟札には天神宮、春日大明神とあるし、慶応4年(1868)の棟札には天神と高皇産霊尊とあり、明治4年(1871)には本来の祭神『生雷神・思兼神』を加えたが、さらに明治25年の『明細帳』や昭和28年7月26日付け『宗教法人法による届出書』には、高皇産霊神・孝元天皇と届けている。この地が孝元天皇の軽境原宮跡伝承地と云われたことから天皇を祭神としたと見られる。 例祭は十月九日。 奈良県史 |
牟佐坐神社 大月次新嘗 牟佐は假字也○祭神生雷神、(天武紀)〇三瀬村に在す、今境原天神と称す、(大和志、同名所図会)○日本紀、天武天皇元年7月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、高市郡大領高布縣主許梅、條忽口閇而不能言也、三日之後、方著神以言、牟狭社所居、名生雷神也、又捧幣而禮祭高市身狭二社之神、然後壹伎史韓國自大坂來、故時人曰、二社神所教之僻適是也、軍政既訖、将軍等挙是三神(三神は高市、牟佐、村屋をいふ也、)教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下牟佐坐神從五位上、 神社覈録 |