曽我川西岸近く、田の中に島状の叢林があり、遠くから目立つ。 同神林は南北に長い随円形で、長経に一條の道が通じ、140mに達し、参道は北側の野道から入るのが正式である。 古代における氏族の勢力圏は明確でななく、北方の蘇我・南方の羽田氏・巨勢氏にも程近い所である。 『式内社調査報告』は「元官幣大社広瀬神社の摂社にかつて由中神社と言ふのがあつた。「同社記略抄」にば「摂社田中神殿一座(昔廊内在本社坤)御年神(本社在同国高市郡巨勢里所謂稲代神社是也。)件神者稚産霊命之子、亦名豊宇気姫命。俗云小稲魂神似稲種爲神体」とあるが、これによつて祭神は明らかである。」として、祭神を御年神と断定している。 |
稲代坐神社 創建年代は明らかでないが、概に『新抄勅格符抄』の大同元年(806)に「稲代神社紳封一戸」とあり、『三代実録』の貞観元年(859)正月27日にも、大和国従五位下稲代神社従五位上を授け奉るとあって、遠く1180余年前にまつられていた古社であることがわかる。『延喜式』神名帳には式内大社として登載され、月次新嘗祭には安上官幣に預る神社であった。『大和志』には「在所未レ詳、或日レ在ニ常門村一 今称ニ打鳥ノ祠一是」とあり、俗に「打鳥さん」で通っている。『五郡神社記』に当社は巨勢郷奉膳村田中にあるといっているが、『高市郡神社記』には巨勢とは当社の所在地を含めての称と解し、広瀬神社の摂社田中神社の『社記略称』に『摂社田中神社一座御歳神、本社同国高市郡巨勢にあり、所謂稲代神社是也、件の神は稚産霊命之子亦の名豊受姫命。俗に稲魂神と云う』とこの神社の神である御歳神は高市郡巨勢の稲代神を勧請したとあるところからも『大和志』の説が正しいと述べている。例祭は10月10日で、宮座は四座あり、弓場・森田・東・敬紳講という。 奈良県史 |
稻代坐神社 大月次新嘗 稻代は伊奈之呂と読り、○祭神在所等詳ならず 大和志に、或曰、在常門村、今称打鳥祠、是と云り(大和名所図会同じ) 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下稔代神從五位上、 連胤按るに、城上郡稔代神社あれど、此時の社順を考へ、かつ祭事記、大和志等に從うて爰に載す、 類社 丹後國丹波郡稻代神社 神社覈録 |