飛鳥川の左岸丘陵の北端近く、東麓に東面して所在し、豊浦の向原寺の南側を西に少し入つた所に鎮座する。東方約500mを距てた丘陵は、史蹟甘樫丘であり、展望台がある。 隣の向原寺境内にに豊浦宮跡がある。 古くは甘樫神と称し(三代実録)中世では湯起請の神(五郡神社記)とも呼んでいる。 境内に自然石の立石がある。それは高さ約3m、幅約1.5m、厚さ約1mの片麻岩で、社殿の北側に東面して立つている。 これは飛鳥地方に見られる石造遺物の一種で祭祀遺跡あるいは結界石かとも思われるが、特別な伝承はない。 当社の特殊行事として、クガダチの神事がある。これは例祭日に行なわれるが、戦後になつて古代の盟神探湯の儀が復興された。 |
盟神探湯 「盟神探湯」 Kugatati, Trial in Ancient Times 盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法です。「日本書紀」によれば允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えています。 現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」としてその形を保存・継承しています。 「立石」と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほかに、村内の岡・上尾・立部・小原などにも残っています。 社頭掲示板 |
甘樫坐神社 甘樫丘の北西麓に鎮座。祭神は大禍津日神・神直日神・大直日神・伊弉諾神・豊玉比売命。旧村社。『延喜式』神名帳の高市郡に『甘樫坐神社四座』とあり、同書四時祭には「山口神」の一つに上げられている。天安3年(859)1月27日、従五位下から十五位上を授けられた(三代実録)。「五郡神社記」によると、当社は逝回郷甘樫丘前にあって、湯起請の神といわれ、武内宿禰が祀ったものという。近世、鎮座地付近が推古天皇豊浦宮にあたることにより、祭神を推古天皇としたことがあり、「大和志」に「在豊浦村、今称推古天皇」とみえ、「高市郡古跡略考」にも雷村・豊浦村両村の鎮守にして推古天皇を祀るとある。現在でも豊浦・雷両大字が氏子となり、例祭には故事にちなんで盟神探湯の儀が行われる。境内には立石と呼ばれる片麻岩の板状巨石が東面して立ち、飛鳥地方の古代石造物の一つと推定されている。 寺院神社大辞典 |
くがだち 「くがだち」とは古代の裁判のことをいい、煮立った湯の中に小石を入れ、それを素手で取らせて、やけどの具合で審議を判断するという、ずいぶん無茶なものでした。「日本書紀」には甘樫丘で行われたとありますが、そのふもと豊浦では、そのなごりを伝える飛鳥特有の神事として、今でも行われています。 場所は豊浦寺のすぐ裏の推古天皇をまつる甘樫坐神社です。神社といっても、境内には畳の大きさの板石が1枚立っているだけで、誰も住んでいません。桜の咲く頃、境内の板石の前にしめなわが張られ、その中央にかなり年代ものと思われる御湯釜がすえられています。そしてその釜ではすでに「お御湯」がぐらぐら煮えたぎっています 。 大きな笹をかかげて式が一通り終わると、参列している村人一人一人に笹を渡し、その笹をお御湯釜のお御湯につけ、我が身を拭い清めます。もちろん今は無病息災を願うものですが、無言の儀式が粛々と続きます。 神事は、原則として毎年4月の第一日曜日に行われるようになっていますが、都合によって第二日曜日に変更されることもあります。 |
甘樫坐神社四座 並大月次相嘗新嘗 甘樫は阿萬加志と訓べし○祭神詳ならず○豊浦村に在す、今推古天皇と称す、(大和志、同名所図会)○式一(四時祭上)祈年祭條に、甘樫山口加馬一匹、」同二(四時祭下)相嘗祭神七十一座、割甘樫四座、○当国十三処山口の一座也、然るに当社に限りて、山口社とうはず、特に四座にて相嘗に預り、かつ貞観元年9月8日為風雨祈の奉幣にも洩れたり、だまたま卜本に山口とあれど外に拠なし、其故いかにとも知がたし、〇日本紀、允恭天皇4年9月辛巳朔戊申、詔曰、群卿百寮及諸國造皆各言、或帝皇之裔、或異之天降、然三才顯分以来、多歴萬歳、是以一氏蕃息、更爲萬姓、難知其実、故諸氏姓人等、沐浴齋戒、各為盟神探湯、則於味橿丘之僻禍戸神、坐探湯瓶、而引諸人令赴曰、得實則全、為者必害、」古事記、(允恭段)天皇愁天下氏々名々人等之氏姓杵過而、於味白梼之言八十鍋津日前、居玖詞瓶而、定賜天下之八十友緒氏姓也、』同記、(垂仁段)在舐白梼之前葉広熊白梼、令宇氣比枯、亦令宇氣比生、再名賜其曙立王、謂倭者師木登美豊朝倉曙立王、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下甘樫神從五位上、 神社覈録 |