宗我坐宗我都比古神社
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   【延喜式神名帳】宗我坐宗我都比古神社 二座(並大 月次/新嘗)大和国 高市郡鎮座

   【現社名】宗我坐宗我都比古神社
   【住所】奈良県橿原市曽我町1196
       北緯34度31分9秒,東経135度46分15秒
   【祭神】宗我都比古神 宗我都比売神
       『五郡神社記』武内宿禰 石川麻呂

       祭神1座は宗我都比古神とされるが、もう1座は明らかでない。

   【例祭】10月6日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】大同元年(806)宗我神三戸大和『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日従五位上に進階『三代実録』
       同6年(864)6月16日には正四位下
       明治40年(1907)9月24日村社

   【関係氏族】蘇我氏
   【鎮座地】移転の記録はなくこの地は蘇我氏の居住地である。
        移転はなかったものと思われる。

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「蘇我大神宮」と称す
   【社殿】本殿白木の流造
       拝殿

   【境内社】稲荷社・戎神社・八阪神社

境内広く手入れも行き届いている。社叢も目立つ。
蘇我馬子が、蘇我氏の始祖の 宗我都比古・宗我都比売を祭るために創建したと伝えられている。
また、倉山田石川麻呂の二男徳永内供の子永末が、蘇我氏の祖神を奉齋するため土地を賜い、芝茅原あるいは清澄池を埋めた所に、畠を作り、社務と耕作を行なったという。
当地・旧高市郡曾我邑一帯が蘇我氏の大和における根拠地であったことは確かと思われ、その地に祖神を祀る神社として創建したのが当社と見られる。


宗我坐宗我都比古神社

一、御社名
式内大社宗我坐宗我都比古神社
一、鎮座地
奈良県橿原市曽我町1196番地(交通)近畿日本鉄道大阪線真菅駅下車西南100m
一、御祭神
宗我都比古大神、宗我都比売大神
一、御神体
木像二体
一、由緒概要
曽我は古名を蘇我と記し8代孝元天皇の御子彦太忍信命の孫に当る武内宿祢の第三子石川宿祢が蘇我の大家を賜わって大阪河内から移り住みこのために姓を蘇我と改めたという。33代推古天皇の御代になって石川宿祢五世蘇我馬子宿祢がここに社殿を造って始祖石川宿祢夫妻をお祀りしたと伝えられ凡そ千三百数十年前で当神社の起源とされる。
蘇我氏の氏祖を祀る当社は古くから曽我の近郊の人たちから「曽我さん」という愛称で広く親しまれている。
一、祭祀
祭儀は2月22日の祈年祭、10月6日の御例祭、11月26日の新嘗祭がある。この御例祭のときと、境内社の稲荷神社初午祭(3月初め午の日)のときに御供(餅)撒き行事が行なわれる。秋季祭は10月10日より17日まで宮座四座の各当家宅で小神輿を祀り、17日の宵宮祭には大神輿によって御神体を曽我町集落内の御旅所(飛地境内)まで1.3Kmを渡御する。神職は終夜御神体を衛り翌18日神社に還幸せられる。尚御旅所への神輿渡御だけは昭和37年以降廃止されている。また、2月13日の御田祭オンダマツリ(お田植式)には拝殿前左右の箱組の砂囲いの擬田に稲苗(早苗)になぞらえた松葉(お正月用門松)を植えてその年の豊作を祈念する神事がある。
尚前記の宮座中講は宗我座、神町座、宮座、宮元座の四座があり、氏子戸数184をかぞえる。
一、境内地、その他
神域は約三千坪で、この地は中曽司遺跡の中心にあり周辺の田畑から土器や石器等が出土したことより弥生時代から古代人が住みつき飛鳥時代にこの曽我を根拠地として蘇我氏が勢力を伸ばした地であり以後、奈良・平安時代には大和国曽我庄といわれ皇室領の荘園であった。旧高市郡真菅村大字曽我の旧村落から北北西約1Kmの位置にあり近畿日本鉄道開通当時(大正14年)以降駅周辺に数戸の人家があったが昭和36年には神社前に十数戸の新興団地が出来て以来、真菅駅を中心に数千戸にまで急増しています。
神社入口には昭和3年11月御大典記念の神明造り石鳥居があり、その横に社名標石があり、その背後に制札がある。尚社地内には百度石「元禄7年(1694年)」銘、拝殿前「蘇我大神宮明和8年(1771年)9月吉日藤井氏神町座中」の銘をはじめとして灯篭が七対と一基(内一対は稲荷神社前)あり、拝殿前及び本殿前にそれぞれ一対の狛犬がある。
一、社殿等、施設
社壇上に東面して鎮座する本殿は白木流造り千鳥破風付、檜皮葺で、周囲を土塀白壁塀で囲まれている。尚本殿と拝殿の中間に中門、透塀木造銅板葺、拝殿は単層切妻造り瓦葺である。拝殿の南側には太鼓台、絵馬、神具などを収納する格納庫、大小神輿を収納する収納殿がある。
また参道入口近くに手水舎があり、拝殿前右側に石玉垣を囲んで祓所あり、更に境内の北側に石鳥居一基(中原朝臣多賀高智、献備、慶応三歳二月)と朱塗木造鳥居四基が並ぶ参道の奥に稲荷神社があり、同社に向って左側に戎神社(大国主命事代主命を祀る)と、右側には八阪神社(祭神は素盞嗚命)と三神社の祠がある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




宗我坐宗我都比古神社

式内宗我坐宗我都比古神社は大同元年(806)大和国内に神封三戸を寄せられ(新妙格勅符妙)、天安3年(859)1月27日に従五位下より従五位上に昇叙、同6年6月16日には正五位下となった。(三代実録)。当社の創祀について、「五群神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。社伝によると、持統天皇が蘇我氏一門滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神奉崇のため土地を賜い、社務と耕作を行わしたのに始まるという。祭神二座は「五郡神社記」が武内宿禰・石川宿禰とし、元禄(1688−1704)頃の社記が彦太忍信命・石河宿禰とするが、おそらく土着神の男神・女神を祀ったものと考えられている。

社頭掲示板



宗我坐宗我都比古神社二座 並大月次新嘗

宗我、また宗我都比古は假字也、○祭神明か也〇曾我村に在す、今入鹿宮と称す、(大和志)〇古事記、(孝元段)建内宿禰子、蘇賀石河宿禰者、蘇我臣等祖也、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下宗我都比古神從五位上、同6年6月16日辛未、授大和國從五位上宗我都比古神正五位下、

神社覈録



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