鏡作伊多神社
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   【延喜式神名帳】鏡作伊多神社 大和国 城下郡鎮座

   【現社名】鏡作伊多神社
   【住所】奈良県磯城郡田原本町宮古60
       北緯34度33分30秒,東経135度46分58秒
   【祭神】石凝姥命
       神社明細帳石凝姥命
       『大和国神社神名帳』石凝姥命

   【例祭】10月9日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】不詳

   【関係氏族】三宅連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「補屋明神」と称す
   【社殿】本殿春日造
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・住吉神社・春日神社

宮古池辺にあり、社域は大きい。
明治初年の神仏分離の時、社地北側の地が字伊多といった為式内社「鏡作伊多神社」比定された。
伊多は板で銅板・鉄板の意である。ここで鏡作部が板の如く鍛へあげる作業をしたので、その祈願の神社であらう。鏡作麻気神社はそれに磨きをかけた方の所願の神社であらう。
古来補屋明神と称したとも伝え、この地の氏族三宅連が祖神天の日鉾を祭ったものか。


鏡作伊多神社

保津と宮古の同名の神社は南と北に道をへだてた両大字にあり同じ名の坪もあり池もあり、これは鋳造に必要な池であり両地でこの作業をなし両地に神を祭つたものか今これを新旧は決め難い。社傳では、この神は鏡の材料を板状に引き伸し鍛へられるに力のあつた方だといふ。この附近に鏡作部が居住してゐてその氏人の信仰したものと傳ふ。
しかし一説に伊多はイユタツ(湯立)でイタツ(伊達)がイタ(伊多)になつたもので湯の湧き立つ意味ともいふ。

式内社調査報告



鏡作伊多神社

古来城下郡に属して補屋明神と称し、祠の東北に沿ってある池の字名を伊多の坪という。享保(1716−36)まで田地であったのを池にしたという。例祭は10月13日。保津と宮古の社は南と北に道を距てた両大字に鎮座しているが、往古は両地共鏡鋳造の作業をする氏族の住地であったと考えられる。
社伝によると、両社祭神の石許利止売命(石凝姥命)は鏡の材料を板状に引き伸ばし鍛えられるのに力の強かった神だったという。この付近の鏡作部の氏族が信仰した神の社が両社であったと考えられるが創建年代など明らかでない。

奈良県史



宮古鏡作伊多神社

延喜式内社 旧城下郡 宮古鏡作伊多神社
祭神 石凝姥命 境内社 布屋(富屋)神社
宮古・鏡作伊多神社は大字宮古集落の南端、宮古池の西に鎮座し、神社南側、道路・水路を挟んで約150m南に保津・鏡作伊多神社がある。宮古と保津の間の道路・水路を境に宮古は城下郡、保津は十市郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる場所では、奈良時代以降の交易の場所である巷(ちまた)又は、役所に伴う遺構等が見つかっている重要な場所に鏡作伊多神社が存在する。現在の本殿・拝殿とも平成9年の台風の被害により、新しく建て替えられ、本殿は一間社流造、千木、勝男木。
本殿の北側に、布(富)屋社があり、覆屋の中に板葺本殿、前に「□屋大明神」の石燈籠があり、この布(富)屋社が本来の鏡作伊多神社とも伝えられている。尚、現在、浄蓮寺に安置されている大日如来坐像は元布(富)屋社又は鏡作伊多神社の本地佛である。境内には、元禄3年(1690)、文化2年(1805)の石燈籠、文化6年(1809)の狛犬もある。

社頭掲示板



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