保津環濠集落の中にある小社。物部姓の保津氏が環濠集落の中で住居した。典型的な城塁で北側は街道に面し道端の堀と二重堀になつている。完全な姿で今日残つている。 伊多は板で銅板・鐵板の意である。ここで鏡作部が板の如く鍛へあげる作業をしたので、その祈願の神社であらう。鏡作麻気神社はそれに磨きをかけた方の所願の神社であらう。 近世以前の保津社は、現在地の東約300mほどの小字・伊多敷(イタシキ)の地にあり、保津集落の移転に従って現在地に遷座したらしい。 境内の中央に目通り約3.5mの老杉がある。 幕末から明治初期へかけての儒者西谷綱奄(けいあん)は当社を富都神社に比定する。 |
鏡作伊多神社 延喜式内社 旧十市郡 保津 鏡作伊多神社 祭神 石凝姥命 南本殿は文化年間(1800頃)の「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造 保津・鏡作伊多神社は大字保津環濠集落の南西端に鎮座し、保津環濠集落北側、道路・水路を挟んで、約150m北に・宮古鏡作伊多神社がある。保津と宮古の間の道路・水路を境に保津は十市郡、宮古は城下郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ッ道を横切り、村屋座彌冨都比売神社の中ツ道まで延びる仮称阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる重要な場所に保津・鏡作移多神社が存在する。保津集落は近世似前には、現在の集落の東側、中垣内、奥垣内にあり、大正12年(1923)の磯城農学校の敷地造成時に採土され、現在集落跡の畑地は少なくなっているが、屋敷地の面影は残つている。平成18年の奥垣内の西、宮占池東堤改修工事時に、集落跡に伴う、檜曲物井戸枠が数基出土している。又、保津・鏡作移多神社も、近世以前の保津集落の約200m東、小字「伊多敷」にあったと推定される。 北本殿 基壇上に、二殿並び建ち、旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、向拝との繋部分は直材、軒廻りは二軒本繁垂木、正面扉口は方立柱を立て、向拝柱に斗共を組み、象鼻を取り付ける。身舎は角柱で土台上に建ち、登階5級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。 南本殿 旧は檜皮蒼、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、身舎との繋材はなく、珍しい手法で、向拝虹梁を組み象鼻の木鼻を取付け、向拝柱に斗共を組み、象鼻の木鼻を取り付ける。身舎は円柱で土台上に建ち、軒廻りは一軒本繁垂木、正面扉口は方立柱を立て、登階は7級、三方に縁を廻し.脇障子を付ける。この南本殿は「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造である。境内に文化2年(1805)石燈籠と、天保6年(1835)の狛犬がある。 社頭掲示板 |
保津環濠集落 保津環濠集落(ほつかんごうしゅうらく) 時代 中世から現代 所在地 奈良県磯城郡田原本町大字保津 交通 保津集落の環濠は、コンクリート張りの水路となりながらも、現在もかろうじてその名残を止めている。中世文書(大乗院寺社雑事記)に保津の名が認められるが、環濠の掘削がいつに遡るものかは不明である。元禄年間(1704)の古絵図には、環濠集落の姿が認められる。それによれば環濠は、東西・南北約1町(約100m)四方のほぼ正方形に近く、鏡作伊多神社部分が南側に張り出している。濠の幅は2間強(約4m)である。 現在、環濠は道路の拡幅などにより幅が狭くなり、周囲にはコンクリートが張られている。環濠集落の面影は失われつつある。 田原本町HP |
鏡作伊多神社 保津と宮古の同名の神社は南と北に道をへだてた両大字にあり同じ名の坪もあり池もあり、これは鋳造に必要な池であり両地でこの作業をなし両地に神を祭つたものか今これを新旧は決め難い。社傳では、この神は鏡の材料を板状に引き伸し鍛へられるに力のあつた方だといふ。この附近に鏡作部が居住してゐてその氏人の信仰したものと傳ふ。 しかし一説に伊多はイユタツ(湯立)でイタツ(伊達)がイタ(伊多)になつたもので湯の湧き立つ意味ともいふ。 式内社調査報告 |
鏡作伊多神社 「大和志」には「在(ニ)穂津村(一) 社ノ傍有(ニ)小池(一)名鏡作 式載在(ニ)城下郡(一)」とあるが『延喜式』神名帳作成当時は城下郡と呼んでいた当地は江戸中期の「大和志」編集当時は十市郡と呼んでいたことになる。例祭は10月13日。 奈良県史 |
鏡作伊多神社 鏡作は前に同じ、伊多は假字也、○祭神詳ならず○穗津村に在す、今十市郡に属す、(大和志) 日本紀神代巻上、一書曰、鏡作部遠祖天糠戸者、また鏡作遠祖天抜戸児已凝戸辺、」旧事紀、(天孫本紀)饒速日命十一世物部鍛冶師連公、鏡作等租、」神宮雑事云、鏡作遠祖天香古山命、 神社覈録 |