島の山古墳の東。大和川支流の寺川沿いにある。宮前橋のたもとに、南面して赤い鳥居がある。昔は、春日社ともいい、結崎明神とも呼ばれていた。 糸井神社の祭神については諸説があつて翻然としないが、土地の名称の通り糸(いと)に関係あることは確かで三の宮、四の宮に祭られている綾羽・呉羽の両神がもとの主神であろうとおもわれる。 本殿は春日大社から移建されたといい伝えられ手法も春日大社の社殿とよく一致している。 別当は宮寺観音院とある。 |
由緒 大和平野の真ん中川西町結崎に鎮座の糸井神社は式内の古社ですがご祭神については豊鋤入姫命といわれているが,また一説には綾羽呉羽の機織の神を祀ったとも伝えている。 本殿は春日大社の古社殿を移築したといい伝えられているが,結崎が興福寺領であったことから誤りがなく建物は江戸時代中期を下らないものといわれている。 境内には石燈籠は多く慶長8年(1603)のものには〔大和結崎大明神〕ときざまれている。また元禄2年(1689)の棟札には〔結崎大和大神宮〕と書かれてあり安永7年(1778)の頭屋の記録帳に〔大和宮祭礼〕とある。このように中世以後〔結崎宮〕として結崎郷を中心に栄えたと思われる。拜殿の天保13年(1842)の絵馬には雨乞のなもで踊りの画面に西瓜の切り売りをしている姿が描かれている。 なお祭は10月第四日曜日に変わり頭屋の奉弊行事でにぎわう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
糸井神社 この神社は、約千年前の「延喜式」という書物に糸井(神)社として記されている由緒ある古社で、祭神は名称のとおり糸に関係する綾羽・呉羽が主神であるとされている。境内には本殿・拝殿・宝庫などがあり、さらに4つの境内社をもつ大規模な神社で春日大社から移建されたといい伝えられ手法も春日大社の社殿とよく一致しています。 秋祭りは、毎年10月の第四土曜日(宵宮)第四日曜日(本祭)の両日に行われるが糸井神社の氏子が輪番でつとめる当家(頭屋)の行事は「当家相撲」があるなど格調高く、大和祭礼のなかでも最も注目すべきものです。 1993(平成5)年4月 川西町教育委員会 社頭掲示板 |
糸井神社の絵馬 神社の拝殿内には、天保13年(1842)と題書名のある絵馬がかかっている画面には、百人余りの人が隊列を組んで太鼓踊りをしている時の様子がイキイキと描かれ熱気が今に伝わってきます。画面右下には西瓜を屋台で切り売りする姿が描かれており大和平野における西瓜栽培の歴史をうかがうことができます。 こうした踊りは「いさみ踊り」「なもで踊り」(願望の意)とも呼ばれ雨乞いや願いがかなった時に踊られたようです。 1993(平成5)年4月 川西町教育委員会 社頭掲示板 |
糸井神社 市場垣内の南西部、寺川右岸に鎮座。『延喜式』神名帳の城下郡「糸井神社」に比定される。旧村社。社伝によると機織の技術集団の神といわれ、綾羽・呉羽の祭神からもうなづける。「新撰姓氏録」大和国諸蕃に「糸井造」の名がみえるが、高福寺領糸井荘は現田原本町法貴寺を中心に存在したので(興福寺雑役免帳)、当社との関係はわからない。建保3年(1215)の春日御社造替□御遷宮記(春日大社文書)によると、この年造り替えられた奈良春日社の末社八龍神社の旧殿が「夕崎庄内大和社」に移築されており、古くは大和社と称したようである。応永13年(1406)9月日の法華寺田畠本券(管孝次郎氏蔵)に「ユウサキ市寺ノ垣内明神」と記される。中世、結崎郷の鎮守として結崎大明神(慶長8年石燈籠銘)・和宮(天文12年内陣机銘)・大和大神宮(棟札)などと呼ばれた。郷内の政治・経済の代表機関に宮本(杜本)があり、神社運営もこれを中心に行われた。「大乗院寺社雑事記」長禄3年(1459)8月24日条に、結崎住人が矢木座の権利を犯したため「結崎宮本」に抗議をしたことが記され、同月晦日条によると『結崎杜本』がこの抗議を了承している。近世には春日社とも称し(大和志)、神宮寺に観音院があった。 本殿は春日大社古殿を移建したと伝え、室町期の春日鹿曼茶羅を蔵する。拝殿内の天保13年(1842)の絵馬は、社頭で雨乞い踊りを武士が見物する片隅に、西瓜を屋台で切り売りする姿が描かれ、当地の西瓜栽培の歴史がうかがえる。また氏子の結崎郷市場村踊連中奉納の慶応4年(1868)の絵馬(県指定有形民俗文化財)は御蔭踊を描く。秋祭りの本祭は10月22日。結崎の五垣内内の各頭屋は、9月29日に竜田川で水垢離をとる。10月1日には各頭屋に御仮屋を作り、氏神の分霊を移して宮司とソネッタン(巫人)が御仮屋の祭をし、頭屋では子供相撲が行われる。21日の宵宮祭りには頭屋から『お渡り』があり、御幣と御酒・稲束をつけた榊を担って出て、拝殿で頭人から宮座の一老を経て宮司に渡され、順に境内社に奉ぜられ、拝殿で祭典とミカンコの神楽が行なわれる。 寺院神社大辞典 |
糸井神社 延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載されている式内社で、本殿も江戸時代に春日大社から移建されたものです。結崎内の五垣内(市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています。 毎年10月第四土日に秋祭(土曜宵宮、日曜本祭)がおこなわれ、氏子が輪版でつとめるトウヤ(当屋、頭屋)の行事は当屋相撲など格調高く、大和祭礼の中でも注目すべきものです。 川西町教育委員会 社頭掲示板 |
大字 結崎の概要 川西町 町・村の歴史 大字 結崎 大字 結崎の概要 結崎は寺川の右岸にあり、中村・市場・辻・井戸・出屋敷の五つの垣内からなっている。 中世結崎郷は、結崎大明神(現糸井神社)を鎮守として、存在していた。1600年代に入ると『結崎之枝郷』として結崎市場村・中村・辻村・井戸村・梅戸村の五村となった。 1700年代の和州御領郷鑑の中では『中村・市場村・辻村・井戸村四か村出屋敷与申付』と記されている。その後、明治10年に四か村と出屋敷方が合併し、結崎村となった。 鎮守であった糸井神社は、延喜式内社。糸井神社の祭神は、『大和志料』の中に『本殿豊鍬入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、同四ノ宮呉羽明神』と記されており、社殿中にも綾羽・呉羽の祭神とあることから、機織の技術集団の神と推察される。本殿は春日大社の古殿を移築したと伝えられ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺や春日大社との関連も深かったと考えらえている。 拝殿内には、多数の絵馬がある。中でも江戸時代に始まった、民衆が伊勢へ群参したおかげ参りに発する『おかげ踊り絵馬(慶応四年(1868)柵』と、江戸時代奈良盆地を中心に盛んであった雨乞いの踊りの形をあらわした『太鼓踊り絵馬(天保十三年(1842)作』があり、何れも県の文化財として指定されている。 この糸井神社から南東へ200メートルほど行くと寺川河川敷に、面塚がある。 面塚は能楽観世流発祥の地として知られている。この面塚に関し、次のような伝説がある。『室町時代のある日のこと、一天俄かにかきくもり空中から異様な怪音と共に寺川(謡曲でいう糸井川)のほとりに何か落下した。この落下物は、一個の翁の能面と一束の葱であった。村人は、能面をその場に葬り(一説にここ糸井神社で保存、その後春日大社へ奉納されたというが、現在は不明)、葱はその地に植えたところ、みごとに生育し、戦前まで『結崎ネブカ』として名物になった。何れにしても史実と幻想をおりまぜて伝えられたものといえる。 大和磯城ライオンズクラブ 社頭掲示板 |
糸井神社 鍬 糸井は伊止為と訓べし〇祭神糸井造祖歟○結崎市場村に在す、(大和志)今春日と称す、(大和名所図会) ○、姓氏録、(大和国諸蕃)糸井造、新羅国人天日槍命之後也、 神社覈録 |