池の北の小さな社。崇神天皇7年創立と伝う。 この辺は和名抄に「城下郡大和(於保夜未止)郷」であつた。よつて社名に倭の字がある。 太平洋戦争に際し、海軍は大和海軍航空隊飛行場の建設を計画、柳本町、朝和村西部、川東村東部の地を選んで工事開始、当神社はこのため海知集落北方の字ヒガシフカミから大字の南部の現位置に移動した。 河内にも恩智神社があり、大御食津彦命、大御食津姫命の二神を祀る物部氏の本家の斎祀った神々であるが、この社の大和郷版であろう。物部氏の相当な氏族が斎祀ったものと思われる |
倭恩智神社 元は集落北方の小字東フカミにあったが、昭和19年の飛行場建設のため、現在地に遷座した。 『延喜式』神名帳登載の式内社に否定されている。『新撰姓氏録』に「恩智神主、高魂命児伊久魂命後也」とある。『文徳実録』の仁寿元年(851)に正六位上に叙せられ、その後も天慶三年(940)正月、永徳元年(1381)に紳位を進められている。 例祭は10月15日で、以前はカンカン祭りと称し輪番制の当屋により毎年9月7日の宮座神事、8日の宵宮、9日の例祭と三日間営まれた。神饌に七色の御供、荷ない餅、花御供の三種あり、七色の御供とは蜜紺・柿・梨・栗・棗・名荷・桃の七品で、一つずつ串にさし里芋の台にさして立てその下に土器を敷く。これを十膳作り、七膳は本社へ三膳は末社に供える。荷ない餅は竹串を十字に組んで中心に押さえ餅、四方に小餅を一つずつさす。花御供は12cm四方の杉皮の上に白の小餅を九つ並べて御供餅とする慣習であった。 奈良県史 |
倭恩智神社 鍬靫 倭は夜末止と訓べし、和名鈔、(郷名部)大和、(於保夜末止)恩智は音読也、○祭神天津彦根命歟〇海知村に在す、(大和志)〇古事記(神代段)天津日子根命者、倭淹知造等祖、 類社 河内國高安郡恩智神社二座 神社覈録 |