この辺り興田庄(オキタノシヨウ)といふ。「オキタ」の庄の「オ」を除いて「キタ」となり、その南を「シタ」という。岐多は興田のことである。その下は南を指している。 或はキタシタは饒速日命十一世鍛冶師連公(キタシムラジノキミ)の居住地で鍛冶師田(キタシダ)の仮字ともいう。 大和川西岸近く、田の中に社叢は目立つが小さな神社。 境内からの視界が開け二上山もよく見える。 |
由緒 社名岐多志太はキタ氏の田という意味でキタ即ち鉄を鍛える鉄工の神である。今もカジヤガイトウの地名が近くに残っている。また祭神天香語山命は芸能の神ともいわれフエフキ・タイコウジ・ヒョウシダの地名もあり雅楽が最初に伝えられた地ともいわれる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
岐多志太神社 田原歴史遺産 延喜式内社 旧城下郡 大木 岐多志太神社 祭神 天香語山命 天児屋根命 二柱 岐多志奴神社は村屋座彌富都比売神社の北北西約400mの大宇伊与戸と大宇大木の間にあり、楠、欅、大樹の鎮守の森に西面して、大正8年の石鳥居か建ち、境内に南面して、拝殿と二柱の本殿がある。本殿は、石基壇上に、二殿並び建ち、板葺、銅板で覆う春日造で、本殿の前に、神明造の石烏居か建つ。 この神社の祭神天香語山命の名は、石凝姥命とも呼ひ、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じ、石疑姥命・天児屋根命を祀屯る。この地域の祖の物部大木連一族に、鏡作連の祖、鍛冶師連があり、「岐多志太」は「鍛冶帥田の萬菓仮名文宇の表記か。大木に「カヂヤカイト」「カンヂチャウ」の小字名かあり、これらに関わる地名か。又、天香語山命は天ノ岩戸神話で天照大御神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いた事から、芸能の神とされ、この大木に「フエノキ∫ツツミウチ」ヒョシダ」の小字名があり、雅楽に関連する地であったのではないだろうか 大正10年 「岐多志太神社由緒」奈良女子高等師範学校教授 水木要太郎 編 平成8年9月28日 「岐多志太神社拝殿造営記念」大字大木自治会・岐多志太神社 守屋広尚文書 より この神社の旧社名は、太根命であったが、明治7年(1874)の神仏分離令の時、式内社岐多志太神社となった。岐多志太神社は崇神天皇7年の鎮座と伝えられている。(明治12年 大和国式下郡神社明細帳) 拝殿は、大正10年(1921)に三間半×二間と従来の二倍以上の規模に改築された。 平成20年度 No.7 田観3 田原本町観光協会 社頭掲示板 |
岐多志太神社 當神社ハ古來ヨリ岐多志太神社ニシテ通称社號ハ神地ノ字ヲ以テ大根神ト云へリ。天香語山命亦名天降御名手栗彦命亦名高倉下命是命者饒速日命天道日女爲妃天上誕生ノ御子ナリ。 宇麻志遅命ノ御兄ノ神ナリ。大禰命ハ天香語山命ノ弟宇麻志遅命ノ第三ノ孫ナリ。其弟出雲醜大臣命ノ子大木食命アリシハ何レモ物部氏ノ御祖ナリ。大田々根命亦天児屋根命ト唱へ奉ルハ誤ナヲシナラン。大禰命亦大木食命ハ天香語山命ノ御孫ナリ。社地の字大根神亦元村名大木ト云へリ由縁アリ。然ルニ崇神天皇ノ御宇、大神神社大物主神ヲ祭ル神主大田々根命云々物部ノ八十手ノ所作祭ル神ヲ物ヲシテ祭ル八十萬群神天社國社ト云ニアルニ依リシハ吾ナリ。式内岐多志太神社ノ祭神ハ天香語山命・大禰命ナヲ。或ハ大木食命歟、其社爲、旧拠今社ノ神地及隣地字ヲ以テス。社地ノ西へ引続田地ノ字神縄ト云、其西字佃田、其西字志戸鶴、其南字柏子田、其東字鼓打、其東子笛吹ト云フアリ。 柏子田ノ南字曾根田ト云、各々皆田地壱丁宛之字ノアルハ社頭ニ由緒ノ深キ二社ノ旧証ト考証仕候也 「神社明細帳」(明治二十四年調製) |
岐多志太神社 近鉄田原本駅より2.5キロメートル東方の三輪街道と田原本街道との分岐点付近に鎮座する。『延喜式』神名帳登載の式内社に比定されている。俗に鎮座地の小字名と同じく大根神ともいう。神社は大字大木の鎮守社であるが新在地は伊与戸領に属している。 例祭は10月6日。 奈良県史 |
岐多志太神社 延喜式内社 祭神 天香語山命(あめのかぐやまのみこと) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 二柱 由緒 岐多志奴神社は村屋座彌富都比売神社の北北西約400mの大宇伊与戸と大宇大木の間にあり、楠、欅、大樹の鎮守の森に西面して、大正8年の石鳥居か建ち、境内に南面して、拝殿と二柱の本殿がある。本殿は、石基壇上に、二殿並び建ち、板葺、銅板で覆う春日造で、本殿の前に、神明造の石烏居か建つ。 この神社の祭神天香語山命の名は、石凝姥命とも呼ひ、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じ、石疑姥命・天児屋根命を祀屯る。この地域の祖の物部大木連一族に、鏡作連の祖、鍛冶師連があり、「岐多志太」は「鍛冶帥田の萬菓仮名文宇の表記か。大木に「カヂヤカイト」「カンヂチャウ」の小字名かあり、これらに関わる地名か。又、天香語山命は天ノ岩戸神話で天照大御神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いた事から、芸能の神とされ、この大木に「フエノキ」「ツツミウチ」「ヒョシダ」の小字名があり、雅楽に関連する地であったのではないだろうか。 大正10年 「岐多志太神社由緒」奈良女子高等師範学校教授 水木要太郎 編 平成8年9月28日 「岐多志太神社拝殿造営記念」大字大木自治会・岐多志太神社 守屋広尚文書より この神社の旧社名は、太根命であったが、明治7年(1874)の神仏分離令の時、式内社岐多志太神社となった。岐多志太神社は崇神天皇7年の鎮座と伝えられている。(明治12年 大和国式下郡神社明細帳) 拝殿は、大正10年(1921)に三間半×二間と従来の二倍以上の規模に改築された。 公式HP |
岐多志太神社二座 鍬靭 岐多志太は假字也〇祭神在所等詳ならず 神社覈録 |