鳥見山(とみやま)北側の忍坂川を南へ渡つた山腹に鎮座する。 筑前宗像社の分祀とされ、胸形君の一族の勧請によるもので天武以前の鎮座といわれる。 中世衰微したが安政6年(1859)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎えて再興した。 明治維新の際まで、宮寺として外山村大字宮の谷に不動院(真言宗、本尊不動明王)があつた。 |
宗像神社縁起 鳥見山の北麓、外山の集落南方、国道165号線南側に鎮座し、社殿は西面する旧指定村社で、式内大社。俗に「春日の宮」といったが、幕末の国学者・鈴木重胤が、この地にきて宗像三神の衰微をなげき、村民と相はかって再興に努力し、安政6年(1859)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎え、万延元年(1860)にその社殿も成り、明治8年(1875)春日神社の社号を廃して宗像神社と称し、明治21年(1888)さらに社殿を改築した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宗像神社 宗像神社の創建は古く、天武天皇の時代(西暦672〜685)に、当時天皇に仕えていた筑前(現福岡県)の胸肩むなかた徳善なる者の娘、尼子娘あまこのいらつめが召されて妃となり、当神社の創建者である、高市皇子たけちのみこをお生みになった。皇子の創建後、当神社は南北朝時代、社人高階義岑が弟、玉井入道西阿と共に南朝に味方して赤尾城・鳥見城に拠り興国2年7月3日、敵将渡辺源四朗と合戦した際、鳥見山中腹にあった、宗像神社は兵火で焼失し山麓に小祠だけとなり、神域は奈良興福寺の支配下となり、春日神社(祭神:天児屋根命あめのこやねのみこと・武甕槌命たけみかづちのみこと経津主命ふつぬしのみこと・比売神ひめがみ)と若宮神社(祭神:天押雲根命あめのおしくもねのみこと)を勧請して、宗像神社も春日神社と称するようになった。その後、正平9年高階忠正は神霊を自邸に移し中島弁才天と称した。こうして多紀理毘売命たぎりびめ・市寸嶋いちきしま比売命・田寸津たぎつ比売命の3神は、3箇所に祀り継がれていった。嘉永7年当地を訪れた国学者鈴木重胤は、玉井家の庭園に祀られていた中島弁才天を知り、中島弁才天の中島は宗像中津島のなまりで、弁財は神仏習合に女神宗像神の事であると考え、宗像社再興に尽力し、安政6年宗像大社より神霊を迎え万延元年社殿が完成した。その後明治8年春日神社の社号を廃して宗像神社とした。明治21年社殿を更に改築して、初めて現在のごとく宗像の神を中央の位置とした。末社として、六社神社(祭神:伊邪那岐命・天照皇大神・月世見命・伊邪那美命・素盞鳴尊命・大己貴命)琴平神社(祭神:崇徳天皇)宮谷神社がある。宮谷神社は、俗に鬼子母神きしぼじん社と称されるが、区民からは子供神社の名で親しまれている。子供神社は現在、御神木である大きな楠の木と共に、宗像会館に隣接して祀られている。 公式HP |
宗像神社 JR桜井線桜井駅の東南約1.4Km、鳥見山北側の忍坂川を渡った山腹に鎮座する。『延喜式』神名帳に登載された式内名神大社で、祭神は多紀理毘売命・市寸嶋比売命・田寸津比売命のいわゆる宗像三紳である。創祀年代は明らかでないが、上代概に早く筑前国宗像神社の神を大和国に勧請され分祀された宮である。 天武天皇の御世に筑前から来た胸肩徳善が飛鳥浄御原宮に仕えたが、その女尼子娘が天皇の妃となり高市皇子の生母である(『日本書紀』)。『新撰姓氏禄』の左京皇別に、高階真人は天武天皇の皇子太政大臣高市主より出ずとあるが、かつて胸肩君一族が筑前から宗像三座を鳥見山字一本松に勧請した当社の祭祀や管理に預かったのがその子孫の高階真人であったとみられる。『三代実録』によると、元慶4年(880)3月27日当社は官社の列に加えられ、筑前の宗像神社と同神別社であると記している。同書5年11月16日の条に当社の神階従一位勲六等とあり、大宝令には七四町の位田を領した。吉野時代に兵火によって全焼し、宗像三紳はそれぞれ三か所に祀られた。一座は春日神社へ、外の二座は外山の玉井両家に祀られた。幕末に鈴木重胤(1812-63)がこの地にきて宗像三紳の衰微を嘆いて、村人と協力して再興に努め安政6年(1859)改めて筑前本社の神霊を迎えた。明治8年(1875)春日神社の社号を廃し宗像神社と改称した。当社の神宮寺は明治初年まで外山村大字宮の谷に不動院(真言宗)があり不動明王を本尊としたが、今分離して残っている。 奈良県史板 |
宗像神社 鳥見山の北麓に鎮座し、宗像三神(多紀理毘売命、市杵島比売命、田寸津比売命)を祭神とする宗像神社は、天武天皇の御子、高市皇子が母親の胸形(むなかた)尼子娘の実家(筑前・現福岡県)の氏神である、宗像三神を祀ったのが始まりといわれています。 宗像神社は全国に散在していて、それぞれいつ頃からの鎮座か検討が必要ですが、この宗像神社は「延喜式」に記載されているばかりか893年には太政官府にひく高階真人忠峯の解状では、筑前国宗像郡金崎の人たちが16人修理にかかわったという事実があり宗像大社との古くからの強いつながりが感じられこの地に北部九州系の神社があることは注目に値する。 その後、祭祀を司ってきた高市皇子の後裔・高階義岑が、南北朝の争いの際に南朝に味方し戦い、当時鳥見山の中腹にあった宗像神社は、兵火で焼失し小祠だけとなり、興福寺の支配下で名前も春日神社となりました。以降、神社は荒廃の一途を辿ったようですが、正平9年(1354年)高階忠正は神霊を自邸に移し中島弁財天と称しました。嘉永7年(1854年)当地を訪ねた幕末の国学者、鈴木重胤は、玉井氏(高階氏と同様、高市皇子の後裔)の庭園に祀られていた中島弁財天を知り、克明に伝承や民間信仰を調査し、中島とは宗像中津島との繋がり、弁財は神仏習合に女神宗像神と考え、宗像三神の再興に務めました。そして安政6年(1875)に改めて、筑前の宗像大社から分霊をうけ再興され、明治8年(1874年)に春日神社の社号廃し宗像神社とされました。 国史跡の桜井茶臼山古墳から、東に向かって約5分、外山(とび)のバス停のすぐそばにあります。近年(平成21年)社殿が建て替えられています。 桜井市観光協会 |
宗像神社三座 並大月次新嘗 宗像は牟那加多と訓べし○際神田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、〇外山村に在す、今春日と称す、(大和志、同名所図会)、 官社 三代実録、元応4年3月27日庚辰、以大和國城上郡宗像神預於官社、坐太政大臣東一條第、又坐筑前國宗像郡、皆是同神別社也、 祭祀 年中行事抄、宗像祭條に、官幣不立氏人祭之、 修理料 類聚三代格一、寛平5年10月29日、太政官符、慮充行宗像神社修理料賎代庸丁事、從良賎十六人、正丁、在筑前國宗像郡金崎、充行有庸丁八人、大和國城上郡四人、高市郡二人、十市郡二人、右得彼社氏人從五位下守右少弁兼大學頭高階眞人忠峯等解状称、件神坐大和国城上郡之内、與坐筑前国宗橡郡從一位勲八等宗像大神同神也、旧記云、是天照大神之子也、大神勅曰、汝三神降居道中、奉助天孫、為天孫所崇祭者、今國家毎有祷蹄請奉幣件神、是基本縁也、唯筑前社有封戸神田、大和社未預封例、因茲忠峯等始祖太政大臣浄廣壹高市皇子命、分氏賎年輸物令修理神舎、以為永例、而年代久遠物情解体、氏衰路遥不堪催発、須依貞観10年6月28日格、申請祖神封物、以充修理料、而大神宮事既異諸社、氏人等狐疑猶豫空経年序、所在神舎既致破壊、今件賎同類藩息已有其数、望請進件賎為良、将令備調庸、其氏永請随近遥丁、以充修理料、謹請官裁者、大納言正三位兼行左近衛大將皇太子伝陸奥出羽按察使源朝臣能有宜、奉勅依請者、仍須件遥丁待彼氏高階真人長者并神主等共署申請充之、差充之後不得諏差他役、但其死閥及者老之代、又同待請充之、永以為例、 社職 三代実録、元慶5年10月16日辛卯、太政官処分、依請大和國城上郡從一位勲八等宗像神社、准筑前國本社置神主、以高階真人氏人爲之、」類聚三代格一、元慶5年10月16日、太政官符、応准筑前国本社置從一位勲八等宗像大神社神主事、(坐大和国城上郡登美山)右得氏人内蔵権助從五位下高階眞人忠峯等解状、称、件社坐大和國城上郡登美山、依太政官去年3月27日符旨預官社訖、自從清御原天皇御世至于当今、氏人等所奉神宝并園地色数稍多、高階真人累代鱗次執当社事、而今経世久遠人意懈緩、或不勤守掌紛失神宝、或被此相譲欠怠祭事、如是之故屡致重崇、仍可准本社置神主状、去年申官、而未蒙裁許、件中忠峯天性清廉堪為神主、望請早被補任令掌神事、但待氏長挙被補其替、相替之限一依格制、謹請官裁者、從二位行大納言兼左近衛大将源朝臣多宜、奉勅依請、 伴信友云、高市皇子の母は紀に胸方徳善女とあり、筑前胸形神をもていつける胸形君の縁によりて、高市皇子の外戚の氏神として祭り給へるを、其御後の高階氏人等か祖神と崇めたる也、と云ふは然るべし、 神社覈録 |