この地は磐余池を望み神功皇后・履仲天皇の居所であった磐余稚桜宮跡という。 『式内社調査報告』は「嚴密な意味では論社ではないが、延喜式の当時城上郡であつた若桜神社が、中世に十市郡になつたため、稚桜宮跡伝承地近くの十市郡内所在神社(当社のこと)が、若桜神社とまぎらはしい名称を付したことにはじまる。」と記している。 文政3年(1820)の宮座文書にも「当村氏神天満宮」(梅咲直昌文書)とあつて、天満宮→稚桜神社→磐余稚桜神社→若桜神社と改変の跡がみとめられる。 昭和49年の奈良県神社庁編『奈良県神社職員録』によると社名は若桜神社であるが、平成七年(1995年)の「全国神社祭祀祭礼総合調査」(神社本庁)では稚桜神社(ちざくら)としている。 1998年の台風で木々がほとんど倒れたため、裸の丘の上にあるので、遠くからでも社殿が見える。 |
稚桜神社縁起 稚桜(わかざくら)名の由来は履中紀3年11月、天皇は皇妃とともに磐余市磯池に両枝船を浮かべて船遊びを楽しんだ。膳臣余磯が天皇に酒を献じたとき、桜の花が舞い落ちてきた。「咲くべき時季でないのに咲いた。いったいどこの花だろうか。」不思議に思った天皇は、物部長真胆連に命じて探させた。長真胆連は探し回って、やっとのこと掖上(池上?)の室で見つけ出し献上した。天皇大いに喜び即座に宮の名を磐余稚桜宮と名付け、長真胆連の姓を稚桜部造と、余磯を稚桜部臣と改めた。 文禄4年(1596)の棟札には、祭神が現在と同じになっているが、江戸中期頃からの書き物(宗国史など)には祭神が天満天神に変っている。しかし、社名は文禄の棟札にも寛文9年(1669)、安永3年(1774)、弘化4年(1847)、明治14年(1881)の棟札にも「稚桜」と明記されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
稚桜神社 神社名「稚櫻」の由緒 日本書紀によると「第17代履中天皇3年(西暦402)冬11月6日天皇が両枝船を磐余の市磯池(神社の東側にあった池)に浮かべて、遊宴ばれたとき膳臣余磯が酒を奉った。その酒盃に櫻の花びらが散ってきた。 天皇は、大変不思議に思われ、物部長真胆連をよんで「この花は季節外れに珍しく散ってきた。どこからだろうか探してこい。」といわれた。長真胆連は花を探したつねて、掖上室山で花を手に入れて奉った。 天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。磐余稚櫻宮の由緒である。 長真胆連は本姓を改めて稚櫻部造とし膳臣余磯を名づけて稚櫻部臣という、」 と記されている。 稚櫻神社の御祭神 ○出雲色男命 「新撰姓氏録」によると物部氏の御先祖の饒速日命の三世の子孫が出雲色男命で、また、櫻の花を探し求めた物部長真胆連(稚櫻部造)の四代前の祖先にもあたります。 「旧時本記」に「出雲色男命は第四代懿徳天皇の御世に大夫となり、次に大臣となる。大臣という号は、この時からできた。」とあります。 ○去来穂別命(履中天皇) 第16代仁徳天皇の皇太子で「日本書紀」の履中天皇紀に「元年(400年)春2月1日皇太子(去来穂別命)は磐余稚櫻宮で即位された。」と記され池之内に都をつくられたことがわかります。 2年11月磐余池を作られた。 ○気長足姫命(神功皇后) 神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、天皇がお崩れになったので、天皇にかわって政務をとられる摂政となられた。日本書紀神功皇后摂政紀に「3年春正月3日誉田別皇子(後の第15代応神天皇 八幡大神)を立てて皇太子とされた。」 そして磐余に都をつくられた。」と記されている。 社頭掲示板 |
櫻の井 「櫻の井」は第17代履中天皇がめでさせられた清水で桜井市発祥の地である。 井は深さ9尺余、径約2尺2寸円形に積みあげた生れ石は苔むして1500有余年の昔を物語っている。井水は鏡の如く澄み、特別の甘味があり、水量豊かで昔から大和の七ツ井のひちつであった。 この地に稚櫻部氏の祖神を祭る稚櫻神社の北に当たり井戸ノほとりに桜が植えられていたことから「櫻の井」と呼ばれた。 またここは履中天皇の磐余稚櫻宮の跡ともいわれている。 尚、櫻井の地名はこの「櫻の井」からはじまると云われる。 社頭掲示板 |