伊射奈岐神社
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   【延喜式神名帳】伊射奈岐神社 大和国 城上郡鎮座

   【現社名】伊射奈岐神社
   【住所】奈良県天理市柳本町1898
       北緯34度33分26秒,東経135度50分44秒
   【祭神】伊射奈岐神 (配祀)菅原神
       『郷村社取調帳』「祭神伊邪那岐命 相殿菅原神」
       『特選神名牒』「祭神伊邪那岐命」

   【例祭】10月14日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       寛正2年(1461)4月6日興福寺大乗院主・尋尊が参詣
       文明17年(1485)9月26日庄屋屋敷、天神等在之
       天文22年(1553)2月28日三条西公条参詣
       天文24年(1555)8月29日後奈良天皇綸旨

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとは東南山の手の山田垣内小字ノゾキにあった

   【祭祀対象】
   【祭祀】明治維新まで天満宮を称していた
   【社殿】本殿春日造桧皮葺
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】春日・若宮・老松三合祀社・嚴島・秋葉・大山咋三合祀社
        建勲神社・事代主・琴平・太神宮・八坂神社・稻荷神社


本社の背後(東側)に全長113mの前方後円墳天神山古墳がある。
中近世を通じて天満宮を称していた。
明治4〜5年ごろ、村社となつたとき、柳本藩との関係をたち切る意味もあつて、伊射奈岐神社と改称したものと思われる。
神宮寺の寺名・位置は不明だが、境内西北隅雑木林内に五輪塔の地輪と空輪がのこる。
もとは現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。



伊射奈岐神社

伊射奈岐神社御由緒
古代政治・経済の中心であった大和平野の東部、天神山小墳を境内として鎮まる「伊弉諾命」「伊弉冉命」の由緒は、社記が天文年間に焼失したために創建年代、規模等は詳しくはないが崇神天皇の卸代に御崇祭されたものであります。第56代清和天皇の貞観元年(859平安時代)に神位にご増進され、第60代醍醐天皇の御代(901〜14藤原時代)の「延喜式神名帳」に列せられ「官弊に預かり賜う」とあります。その後鎌倉・南北朝・室町時代にかけての国内の兵乱によって神社は衰退したが、寛永18年(1614)に2代目柳本藩主織田修理正長種公が三町程東(柳本町山田北側の台地)からこの地に移され本殿を造営、産土神として人々から崇敬されてきました。
明治4年5月太政官布告に基づき柳本藩社となりその後県社から区画改正によって柳本村社となりました。崇神天皇の御代の崇祭は伊勢神宮ど殆ど同時期に創建された最も古い神社であり、日本武尊が東国征伐の出陣に際し、弟橘比売命を妃に迎えて間もない命は我が身を案じ当神社で戦勝祈願をして伊勢へ出立したことも、当初から大和朝廷の崇敬が厚かったことを物語っています。曽ての柳本町大字・小字に祭られていました神々は現在境内の各所に祀られています。
伊射奈岐神社

社頭掲示板



天神山古墳

この古墳は、柳本古墳群の中の行灯山古墳(崇神天皇陵)の西側に近接して、台地端部に営まれた前方部を南に置く前方後円墳である。全長113m、後円部径55m、同高7m、前方部幅50m、同高4mの規模で、後円部にくらべて前方部は低く、比較的前方部の開いた墳形をもつ。段築成や周濠は認められず、埴輪はない。昭和35年に県道天理・桜井線改良工事に伴って発掘調査が行われ、後円部に古墳主軸に平行して封土形成と共に構築された断面合掌形の竪穴式石室が検出された。石室内は盗掘されていないにもかかわらず遺体埋葬の痕跡がない状態で、朱約21Kgを埋納した木棺状主体があり、その周囲に鏡23面、太刀、剣、刀子、鉄鏃、短冊形鉄斧が遺存していた。
墳形、副葬品組み合わせなどから4世紀後半の築造と考えられ、その特徴ある内容から、近接する行灯山古墳の陪塚的な性格を持つ古墳と考えられている。
奈良県教育委員会

社頭掲示板



旧社地

小字ノゾキは崇神天皇陵(行燈山古墳)の南東側後円部周濠外にあたり、櫛山古墳前方部南側の地尊池西側の階段状水田と畑地になつてゐるところで、山田遺跡(縄文〜古墳時代)の西北端になつてゐるが、祭祀地の痕跡は見られない。しかし、字ノゾキの西南西80m余の柘榴塚(崇神天皇陵陪塚。一邊約15mの方形墳で横穴式石室)附近には元和元年(1615)ごろ、八戸の屋敷があつた。

式内社調査報告



伊射奈岐神社

伊射奈岐は假字也〇祭神明か也、〇在所詳ならず、或云、柳本村三輪祠是也、(大和志)
類社
伊勢國度會郡伊佐奈岐宮の下見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下伊射奈岐神從五位上、
連胤云、此時の序次月次新嘗の社のみ、然れば添下郡に坐す一社に限るか、祭事記、比保古等添下郡なる一処として外に引ず、今は三処に載せて後勘をまつ、

神社覈録



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