集落の西南端に位置し、大字出雲に通じる山道に沿つている。道なりに集落の一番奥。道はわかりにくい。山の中腹。 明治以前は白山社を称していたが、いつごろから白山社を称したか詳らかでない。 現在の社名は乘田神社で「明治7年11月旧奈良県の達により復称」。 曳田物部氏の鎮守とされ。従って、かっては饒速日命が祀られていたものと思われる。 昔は谷ひとつへだてた西の丘上にあつて、俗称 古宮址といわれるところに鎮座したといい、そこは三輪引田君難波麻呂の屋敷あとと伝え、その下方(南方)に轟の瀧・轟の淵があつたという。 しかし、いま神社付近に、かつて瀧や淵があつた形跡は見あたらない。 旧社格は指定村社。神宮寺の存否はたしかでない |
乘田神社 雄略天皇遊行ばしつつ美和川に到りませる時に、河の辺に衣洗う童女有り。其れ君姿甚麗かりき、天皇その童女に、汝は誰が子ぞと問はしければ、己が名は引田部の赤猪子と謂すと答白しき、かれ詔らしめたまへらくは、汝嫁夫がずてあれ、今喚してむ、と、のらしめたまひて、宮にかへり坐しきかれ其の赤猪子、天皇の命を仰待ちて、既に八十歳を経たりきて是に赤猪子以為ひけるは、命を待ちつる間に、己に多年を経て、姿体痩み萎けであればさらに所恃無し、然れとも、町つる情を顕しまをさずしては、■くて、えあらじとおもひて、百取之机代物を持たしめて、参上て貢献しみ、然るに天皇、先に命りたまへりしことをば既く忘らして、其の赤猪子に問はしけらく、汝は誰やしき老女ぞ、何用とて来つるととはしければ、赤猪子白しけらく、其の年の其の月に、天皇の命を被りて、今日まで大命を仰ぎ待ちて、八十歳を経にたり、今は容姿既に耆いて、更に所恃無し、然はあれとも、己が志を顧し、白さむとしてこそ参出つれとまおしける。是に天皇大くおとろきまして、曰りたまはく、吾は既く先のことを忘れたり、然るに汝守志に命を待ちて徒に盛年を過ししこと甚愛悲し、とのりたまひて婚さま欲くおもほせとも、その極く老いぬるに憚りたまひて、御歌を賜ひき 其の歌 みもろの、いつかしがもと かしがもと、ゆゆしきかも、かしはらおとめ。 又、歌ひたまはく、 ひけたの、わかくるすばら わかくに、ゐねてましもの、おいにけるかも。 かれ、赤猪子が泣く涙に 其の服せる丹摺の袖悉ぬれぬ。 其大御歌に答へまつれる歌 みもろに、つくやたまかき、 つきあまし、たにかもよらむ、かみのみやひと。 又、歌ひけらく くさかえの、いりえのはちす はなばちす、みのさかりびと、ともしきろかも。 かれ、其の老女に禄多に給ひて、返し遣りたまひき。 故れ此の四歌は志都歌なり。 右 古事記下巻より抜粋しましたので参考にしてください。 昭和42年10月28日 乘田神社宮司 桑山迪徳 社頭掲示板 |
解説 古事記下巻に、「ひきた」に関わるこんな話があります。 のちに雄略天皇となった若建命は三輪川に行幸した時に、河辺で衣を洗う童女の姿に心を奪われその童女に「お前は誰の子か」と尋ねると、「私の名は引田部赤猪子といいます」と答えた。今に宮中に召すので誰にも嫁がずにいるようにと言われた。赤猪子は、天皇の命を待ち、待ち続け八十年経った。赤猪子は、待ち続けた思いだけでも伝えたいと思い、結納の品々を携え天皇を訪ねた。しかし天皇は、先の命を忘れていたがは大いに驚き、「自分は先の事をすっかり忘れていた。しかしお前は志を守り、命を待って、盛りの年を過ごしてしまった。これは甚だ悲しいことだ」と言って、内心は結婚したいと思ったが、あまりにも老いてしまったことに憚って、結婚することは出来ず、御歌と多くの品物を老女に賜って、返し遣わした。 |
乘田神社二座 鍬靫 乘田は、比岐多ど訓べし、和名鈔、(郷名部)辟田、〇祭神辟田首祖歟〇白川村轟瀧上に在す、今白山と称す、(大和志、同名所図会)、○姓氏録、(大和國諸蕃)辟田首、任那國主都奴加阿羅志等之後也、 神社覈録 |