南面の前方後円墳(景行天皇陵の陪塚い号、上ノ山古墳)の右側造出部分に鎮座している。社名・式社の表示は無い。 旧地として 「東方八町または1Kmイモノミナグチ」(現在地不詳) 「村の東北五町(500m)の上方カマトギ池の左カマトキ古墳の下にあつた」 現在地の西方一帯に存在した大市庄内 の3説がある。 |
水口神社 国道169号線崇神天皇陵と景行天皇陵の間の渋谷向山古墳培家西に鎮座する。俗に天皇社と称し、水口大神をまつる『延喜式』神名帳に登載される式内小社に比定される。 元の鎮座地について『大和志料』は現在の社の東八町許の「イモノミナクチ」にあったのを中世に現在地へ遷座したとあるに対して、現在地の西方一帯の大市庄内から遷座したとの説もある。祭神の水口神について『日本書紀』崇神天皇七年秋八月の条に「穂積臣の遠祖大水口宿禰」とあるが『姓氏録』の左京神別に「穂積編臣。伊香賀色雄男大水口宿禰之後也」とあり、『紀』垂仁天皇の14年10月に倭大神が穂積臣の遠祖水口宿禰に神がかりしたとある。例祭は10月15日。 奈良県史 |
上の山古墳 天理市から桜井市にかけての山麓部には数多くの古増が薬かれており、北から大和古墳群・蝟{古墳群・纒向古墳群と呼ばれている。これらの古墳群には初源期の古墳が含まれており、我国の古墳時代成立を考える上で重要な地域となっている。 上の山古墳は、渋谷向山占墳(景行陵)の前方部北側に近接して築かれた全長125mあまりの前方後円墳である。 平成6年、前方部西側に広がる水田部を発掘調査し、墳丘のまわりを巡る幅25m前後の周濠を確認した。周濠の立入りには葺石が施されていた。葺石は基底に大型の石材を用い、上部は小型のものを使用している。 周濠内からは、多量の埴輪が出土した。普通円筒・鰭付円筒・壺形・朝顔型などがあり、形象埴輪として盾形がある。また長さ170cm、幅60cmの板材が出土しており、埴輪と共に墳丘に立て並べられたと考えられる。 本墳の築造時期は、出土遺物から古墳時代前期に位置付けられる。 社頭掲示板 |
水口神社 水口は美奈久知と訓べし〇祭神大水口宿禰歟○澁谷村に在す、今天王と称す、(大和志、同名所図会)、〇旧事紀、(天孫本紀)大水口宿禰命、穗積臣等組、』姓氏録、(左京神別上)穗積臣、伊香賀色雄命男大水口宿根之後也、 類社 近江國甲賀郡水口神社 神社覈録 |