殖栗神社
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   【延喜式神名帳】殖栗神社 大和国 城上郡鎮座

   【現社名】殖栗神社
   【住所】奈良県桜井市上之庄477
       北緯34度31分8秒,東経135度50分7秒
   【祭神】中臣殖栗連祖神
       『式内社調査報告』殖栗王、天児屋根命
       『特選神名牒』祭神殖栗連の祖神
       『大和国神名帳』「御祭神不詳」
       『神名帳考証』殖栗皇子
       『奈良県風俗志編纂資料』殖栗王 天児屋根神

       延喜式に一座とあることから、本来の祭神は殖栗王一座であろう

   【例祭】10月1日 例祭
   【社格】
   【由緒】不詳

   【関係氏族】殖栗連
   【鎮座地】明治40年字十ノ森にあった春日神社を殖栗神社として合祀

   【祭祀対象】中臣殖栗連祖神
   【祭祀】江戸時代は「三十八社神社」と称す
   【社殿】本殿一間社、春日造桧皮葺
       拝殿・集会所兼社務所

   【境内社】春日・稻荷

明治7年(1874)頃までは三十八社神社と称していた。同40年小字十ノ森(とうのもり)にあった春日神社を合祀、十ノ森の近くに字江繰があったため社名を殖栗神社と改めた。
江戸時代は三十八神社といったが、明治10年(1877)の記録[区有文書]では上之庄神社、明治24年(1891)の大和国町村誌集では既に殖栗神社となっている。
旧鎭座地は上之庄領の東北隅にあたる字十ノ森で、現在も水田の中に180坪(580u)の雑木林をのこしている。(今は広い通りに面した小社である)
旧鎮座地の十ノ森のほぼ南2.5Kmが安倍山であること、上ツ道に沿つていることなどから、ここに殖栗連を祭祀した神社が存在して良いと思われる。
本殿の向つて右、低い土塀に三方を囲んだ中に南面の末社があつて、向つて右が字十ノ森から移した春日社(祭神・天児屋根命)である。
もともと殖栗神社という神社はなかつたわけで、『大和志』は城上郡神廟の條で、「殖栗神社(在所未詳)」としている。たまたま字十ノ森の東側に字江繰(えくり)があることから殖栗神社に改めたものであろう。肝心の字十ノ森鎮座 春日社は明治40年にいたつて、殖栗神社の境内へ合紀された。


殖栗神社

近鉄大阪線大福駅の東北900mの位置で、上之庄集落の西南隅、寺川の右岸に鎮座する。元は初瀬川南岸で同集落の東北隅、上つ道のすぐ西小字江繰に鎮座していたと伝える。
祭神は殖栗王と天児屋根命であるが、殖栗王 は用明天皇の第三皇子で母は穴穂部間人皇女。『姓氏録』左京皇別の蜷淵真人の祖である。『延喜式』神名帳の小社殖栗神社に比定されるが、安永2葵歳 三十八社 9月吉祥日と石燈籠銘があるが、明治7年(1874)ごろまで三十八社神社と称していた。同40年(1907)小字十の森の春日神社を合祀社名を殖栗神社と改めた。
東隣の浄福寺(浄土宗)は当社の神宮寺で、本尊阿弥陀如来像の背に寛文7年(1667)の朱漆銘があり、境内観音堂棟札には慶安4年(1651)和州式上郡上庄村の墨書銘がある。かって当社に「太守御武運長久 永仁5年(1297)2月15日後神前願主光阿弥」との刻銘の石燈籠があったが、売却されたという。 例祭は10月1日。

奈良県史



殖栗神社

殖粟は恵久利と訓べし〇祭神在所等詳ならず
日本紀、用明天皇元年正月壬子朔、立穴穂郡間人皇女為皇后、是生四男、其三曰殖栗皇子云々、〇続旧本紀、和銅2年6月癸丑、殖栗物部名代、賜殖栗連○姓氏録、(左京神別上)殖栗連、大中臣同祖、
類社
伊勢國朝明郡殖栗神社

神社覈録



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