等彌神社
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   【延喜式神名帳】等彌神社 大和国 城上郡鎮座

   【現社名】等彌神社
   【住所】奈良県桜井市桜井1109
       北緯34度30分22秒,東経135度51分13秒
   【祭神】大日霊貴命
       『特撰神名牒』饒速日命
       『神祇宝典』「等彌神社饒速日尊也」

   【例祭】5月5日 春の例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創建鎭座の時期をつまびらかにしない
       天永3年(1112)霖雨による山崩れによつて鳥見山の中から現在地付近に遷
       永正7年(1510)9月3日櫻井能登神事始ル「勧進検断目録」
       昭和15年(1940)7月県社に昇格

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は鳥見山中にあり。天永3(1112)霖雨により山崩れで現地へ遷

   【祭祀対象】本来は鳥見山を祀る
   【祭祀】中世以降、明治の中葉に至るまで、「能登宮」と呼ばれていた
   【公式HP】 等彌神社
   【社殿】本殿千鳥破風付一間社流造桧皮葺
       拝殿・齋館・手水舎・社務所

   【境内社】下ッ尾社・八幡社・恵比須神社・桜井弓張神社・稲荷社
       護国神社・猿田毘古社・蛭子社・金毘羅社・愛宕社・弓張社・鳥見山稲荷神社
       黒龍社・桜井護国神社・市杵島姫社


鳥見山の西麓に位置し、社頭は西面する。市立図書館が西側にある。谷間(谷戸)の大社であり、よく手入れされている。
本社を上ツ尾社といい、西下方に下ツ尾社がある。
元は鳥見山中にあり。天永3(1112)霖雨により山崩れにより現地へ遷という。
旧地は鳥見山(標高244m)への登り口に位置し、現在の上ッ尾社の背後にあたる。
この「鳥見山」は、山全体が斎場だったらしく、山頂には祭壇状の斎場跡、祭祀の饗宴場だったという「庭殿(にわどの)」、注連縄をはって祭場とした「白庭(しらにわ)」がある。
中世以降、明治の中葉に至るまで、「能登宮」と呼ばれていた。
明治8年遷宮以前の能登宮は、いまの下ツ尾社が信仰の中心だったという。
中世の能登宮は談山妙樂寺の支配下に置かれたやうで、神宮寺として能登寺が下ッ尾社の前方(北側下)にあった。
この地は「神武天皇聖跡鳥見山」であるとして顯彰運動を盛りあげた結果昭和15年7月12日付官報告示を似つて指定され、「神武天皇聖蹟鳥見山霊畤彰碑」が建てられている。
境内地一帯は弥生式遺跡で、能登谷の細流内から末期弥生式土器・フリント製石鏃・土錘が出土している。齋場山(伝等彌神社旧地)から昭和14年ごろ、祭祀用の臼玉が多数出土している。



等彌神社

上社(上津尾社) 天照皇大神(大日?貴尊)
下社(下津尾社) 右殿:八幡社 磐余明神(神武天皇)品陀和気命(応神天皇)
         左殿:春日社 高皇産霊神・天児屋根命
鳥見山の西麓に鎮座する当社の歴史は古く、10世記前半に制定せられた延喜式の神名帳にすでに記載があります。千数百年の悠久の歴史と伝統を有するとともに、昭和15年の紀元2600年当時には、旧村社から県社に列せられ、爾来、地元桜井は元より、全国的な崇敬に預かる県下有数の古社にして名社です

社頭掲示板



文学碑

七基。建設順に
@賀茂百樹歌碑
「ここおしも/鳥見のゆ庭と/きくからに/伏しこそお我め/あま津み神を」
(上ツ尾社下から山頂ヘ登る石壇の中ほど。向つて右側に南西面)
A佐藤春夫句碑
「大和には/みささき多し/草もミぢ」
(神社入口の西端に北面)
B堀口大學歌碑
「さきに來て等彌の/おん神おがみし/友につづきて/われもおろがむ」
(神社入口。春夫句碑の東側に北面。両碑の間に大學老詩生の友情碑あり)
C堀口大学句碑
「草もみぢ/友の聲かと/虫をきく」
(手水舎の東側に北面)
D徳川宗敬筆萬葉歌碑
「窺良夫跡見山雪之灼然/懸者妹名人將知可聞/うかねらふ迩見山雪のいちしろく/懸ひば妹が名知らむかも 巻十 二三四六」
(霊畤拝所の向つて左側に西面)
E植田青風子句碑
「とみの里/流れのいまも/蓼の花」
(下ツ尾社の北側。能登谷の小流に添つて北面)
F二條弼基筆萬葉歌碑
「射目立てて迩見の岳辺のなでしこの/花総手おりわれはゆきなむ奈良人のため」
(上ッ尾社西側。新参道の奥に東南面)。

 



等彌神社

JR桜井線桜井駅の南東約1km、鳥見山の西麓に鎮座する。下津尾社(下ノ宮)と上津尾社(上ノ宮)があり、上津尾社が本社で大日?貴命 を祀り、下津尾社は本社の西下方に鎮座、品陀別命と天児屋根命を祀る。創建年代は明らかでないが、社記によると、元は鳥見山中にあったが、天永3年(1112)五月の大雨によって山崩れのため社殿が谷に埋没、この年悪疫が流行したので9月5日山の尾の現在社へ遷座したとある。『延喜式』神名帳の小社で能登宮とも称し、中世には多武峯妙楽寺の支配下で、永正7年(1510)9月3日の『勧進検断目録』(談山神社文書)に「桜井能登神事始ル事往古ヨリ庄屋始ム」などとある。
鳥見山は神武天皇神話の伝承地として参道南に『鳥見山中霊畤」の顕彰碑が立っている。背後の旧社地は『庭殿』『白山』『祭場』などの伝説地である。下津尾社前に神宮寺能登寺の跡がある。多武峰妙楽寺の末寺で、天正年間(1573−92)に二石の御供料があったと『談山神社文書』の天正13年(1585)12月の『大織冠御蔵納注文』に出ている。なお下 津尾社前の神宮寺跡から鎌倉−室町の瓦が出土する。
春祭りは5月5日、秋祭りは10月17日。

奈良県史



鳥見の霊畤

先ずはじめに、霊畤(れいじ)とは、「まつりのにわ」という意味です。そして、大嘗祭とは、新天皇が即位後最初に行われる新嘗祭の事です。それを行う場所を、霊畤と言います。
大嘗祭、新嘗祭共、今年の新穀・新酒をもって先祖の神々をお祀りするという意味においては同じですが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、御一代御一度の極めて重大な式典であります。
初代天皇の神武天皇が国家平定の基盤を造られ、橿原市に於いて初代天皇として即位された折、大嘗祭が桜井市で行われました。すなわち、大嘗祭が日本で最初に行われた場所が鳥見山(とみやま)山中の鳥見の霊畤(とみのれいじ)なのです。
これは、一般的な普通の歴史上の遺跡などとは一寸違っていて、国家形成の意義からも実に重大な発祥の史跡であるといわれています。今から50年位前、橿原市で紀元2600年祭が行われた際、我が町の鳥見山が、霊畤伝承地としての国家の認証を受けています。
保田與重郎氏は、「鳥見山がこの聖蹟に指定せられたのは、中古以来も山中の数々の祭祀遺蹟の証があったのである。大和平野の中での独立の山としては、大和三山と鳥見山の他にはない。天つ神を祭る場所は独立の山といふ習俗例はあった」と記されています。また、鳥見山の麓には、鳥見山麓遺跡が広がっており、「わがまち桜井」年表には、鳥見山麓遺跡は、縄文時代後期と記されています。

参考HP https://www.begin.or.jp/~munakata/tominoreiji.html



等彌神社

当神社の背後に位置します標高が245mのなだらかな山容の鳥見山は初代神武天皇が橿原宮に即位され神武4年春2月に「わが皇祖の神霊は天より降りみそなわして私の身体をてらし助けたもうた。いまもろもろの賊を平定してしまって海内(くにのうち)は事件とてないほどよく治まっている。そこで天神を祭って大孝(おやにしたがうこと)の志を告げ申し、お礼を致したい。」と詔りをされ鳥見の山中に霊畤(まつりのにわ)を設け国で採れた新穀及び産物を供えられ御自ら皇祖天津神々を祭り大和平定と建国の大孝を申べ給うた大嘗会の起源我が国建国の聖地であると伝えられております。
その西の麓(ふもと)に鎮座する等彌神社は、十世紀前半に制定せられた『延喜式』の神名帳にすでに記載があり祈年祭の幣帛に預かった古社でありますとともに、昭和15年の紀元2600年当時には、旧村社から県社に列せられ爾来、地元桜井は元より、全国的な崇敬に預かる県下有数の名社であります。ご祭神は「天照大神」を主神として下社には「八幡」「春日」の大神をお祀り申し上げております。
境内には、百六十余基の石燈籠が並立し、参道を進むと上社「@上津尾社」に至り、裏参道を下ると下社「A下津尾社」に至ります。御祭神は、天照皇大神、下社には八幡大神・春日大神をお祀りするとともに、その他八社(B弓張・C恵比須・D金毘羅・E黒龍・F稲荷・G猿田彦・H愛宕・I桃神)の境内社及び桜井市護国神社が鎮座されています。

公式HP



等彌神社

等彌は假字也〇祭神在所等詳ならず○日本紀、神武天皇戊午年10月條、及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也、○当國添下郡登彌神社もあり、

神社覈録



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