忍坂山口神社
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   【延喜式神名帳】忍坂山口坐神社(大 月次/新嘗)大和国 城上郡鎮座

   【現社名】忍坂山口神社
   【住所】奈良県桜井市赤尾42
       北緯34度30分32秒,東経135度52分9秒
   【祭神】大山祇命
       『大和名所図会』「今天一神と称す」
       『大和志』「今称天一神」
       『修正月勧請神名帳』「當所天一大明神」元禄5年(1692)
       明治7年『郷村社取調帳』「祭神天一神明神」
       『神社覈録』「祭神山神大山祇命(中略)今天一神と称す」
       『特選神名牒』「祭神 大山祇神」

       山口神社としての祭神は山の神・大山祇とみるのが順当である。
       中世から近世にかけて陰陽道的慣習の浸透により持ち込まれたのが、方忌・方違の神としての天一神信仰であろう。

   【例祭】4月15日 例祭
   【社格】旧村社 祈雨神祭八十五座の一
   【由緒】天平2年(730)忍坂神戸『大倭國正税帳』
       大同2年(807)「忍坂山口神一戸大和」『新抄格勅符抄』
       貞観元年(859)正月27日正五位下『三代実録』
       貞観元年(859)9月8日遣使奉幣
       以後、中世を通じてその存在を知る史料は見えない
       応永4年(1397)金閣寺造営のとき、当社神木楠の巨樹を伐り天井板とした
       明治37年(1904)村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地に古くから鎮座していたと思われる

   【祭祀対象】本来は山を祀る
   【祭祀】江戸時代は「天一大明神」と称す
   【社殿】本殿の設備はない
       拝殿

   【境内社】

鳥見山の東部、その東側の山麓を北西流する粟原川(忍坂川)により開折された谷間のほほ出口の地に鎮座する。古い赤尾集落の北入口にあたる。
「古代ヤマト」の戌亥の隅に大坂山口神社、辰巳の隅に忍坂山口神社が鎮座する。
本殿なく拝殿のみで、拝殿奥(北側)に広さ30〜40uの一区画を設け、中央東端に高さ63cm、基部幅53cm、奥行33cmの磐座(巻入岩)が立っている。
大正時代には「御神体ハ現存セル老杉一本ヲ崇ム」とされているがこの杉は現存しない。
境内北部にクスノキの巨樹がある。目通り周囲7.3m、高さ25m、根元から高さ2mのとろから二股に分かれ、約15m四方に枝葉を廣げる。応永4年(1397)に足利義満が伐つたという第一世のあとに植えた第二世らしく、樹令六百年になる。
本来は山を祀る神社であったが、いつしか木を祀る神社になりその神木も何代か失われて今日のようになったのではあるまいか。
現祭神は昭和5年11月15日を以つて決定された。それまでは天一神といつた。


忍坂山口坐神社

延喜式内社山口神社は、全部で十四社で、うち十三社まで県下にあります。そのうち飛鳥・石寸・長谷・畝火・耳無・そしてこの忍坂の六山口神社がもっとも大切に祀られてきました。 この神社の樟の巨樹で、二代目にあたります。初代は室町時代、金閣寺を造営するさいに、天井板を一枚張りにしたいというのでこの社の樟を伐って利用されたと伝えられています。その時倒れた先が隣村忍坂まで届いたので、いまも忍坂に「木の下」という地名が残っています。

社頭掲示板




忍坂山口坐神社

鳥見山の東山麓、西北流する栗原川の谷間出口に鎮座する。『延喜式』神名帳に記載の大和国14山口神の一つで、忍坂山の霊を祀ったものと考えられる。祭神は大山祇命であるが、享保21年(1736)の『大和志』にも「在赤尾村。 今称天一神」とあるように中世以来天一神を祭神としてきたが、昭和5年11月15日に大山祇命を祭神と決定された。
創祀は明らかでないが、天平2年(730)の『大倭国正税帳』(『正倉院文書』)に「忍坂神戸穀捌斗耗一升五合定漆斗玖升五合」とみえ、大同元年(806)の『新抄格勅符抄』に紳封三戸を寄せられている。『三代実録』の貞観元年(859)正月27日に従五位下より正五位下に昇叙されている。『磯城郡誌』に応永4年(1397)足利義満が金閣寺建立の節、当古社地の楠木の大樹を伐採して天井板に使用したと記されている。現在境内北部の楠巨木はその後の植樹と伝える。
切妻造瓦葺の拝殿のみで本殿なく、『郷村社取調帳』に「以山為神」とある。『しきしま』によると「御神体ハ現存セル老杉一本ヲ崇ム」とあるが、今枯死し代りに拝殿奥北側の一画に高さ63cmの磐座を立て神の依り代とされている(式内社調査報告松本俊吉氏稿)。神宮寺は当社の西南方の白雲山興善寺で毘沙門天像を本尊とするほか、薬師如来坐像を安置する。 例祭は4月15日。

奈良県史




「忍坂山口坐神社」の大クス(楠)

「忍坂山口坐神社」の境内には一際目を引く桜井市指定「大クス」の巨樹が植わっています。推定樹齢600年、樹高30m、幹周り7.85mで、根元から2mほどの所で二股に分かれ、空洞はなく今も樹勢はいたって旺盛で、大きな枝を20m四方に伸ばしています。なお、この木は二代目で、初代の楠は、室町時代の1397年(応永4年)将軍足利義満が、京都北山に金閣寺を建てる際に、天井板を一枚張りにしたいと云って広く探した所、柳本藩領だった旧敷島村赤尾の当社にある楠を供出することになりました。その際、伐り倒した木の先が隣の忍坂まで届いたので現在も忍坂に「木の下」と云う地名が残っています。



忍坂山口坐神社

巨樹
室町幕府の第三代将軍足利義満は、京都の北山に金閣寺を造営するにあたり、天井板を一枚貼りにしたい為に、この神社の楠の『巨樹』を切出したといわれています。
現在、境内にある楠の巨樹は、このときに切られた木の二代目といわれていますが、定かではありません。
大和の古道紀行
桜井市観光協会

社頭掲示板



山口(坐)神社

やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。
▼忍阪山口神社 奈良県桜井市赤尾。旧村社。大山祇命を祀る。『新抄格勅符抄』に「忍坂山口神一戸大和」とある。例祭4月15日。

神社辞典



忍坂山口坐神社 大月次新嘗

忍坂山口は共に前に同じ○祭神山神大山祇命○赤尾村に在す、今天一神と称す、(大和志、同名所図会)○式一(四時祭上)祈年祭條に、忍坂山口加馬一匹、」同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座、忍坂山口社一座、〇当國十三処山口の一座也、事は甘樫社飛鳥社の下に見ゆ、
類社
山城國愛宕郡賀茂山口神社の下見合すべし
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下忍坂山口神正五位下、
官幣
三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和国忍坂山口神、遣使奉幣、為風雨祈焉、

社頭掲示板



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