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初瀬川に掛かっている赤い橋「神河橋」を渡ると、鳥居があり、そこから石段が長い。予喜山(天神山)の西南尾根端の小山の中腹に鎮座、小山の頂上には磐境がある。 垂仁天皇の43年倭姫命を御杖として、この地は倭国伊豆加志本宮といわれ、八年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、随神の 天手力雄神をここに祀ったという。 大和の国にある六処の山口社の一つであり、葛城の一言主神が雄略天皇の帰路を送った所が長谷山口とされているが、この当たりと伝えられている。 『靖蛉日記』天禄2年(971)七月の描写「おとせで渡る森の前」とあるが当社の杜とされている。 昭和53年末に境内で磐座が発見された。伝承では、現社殿の旧地といい。地表にあらわれたのは大小四個の花崗岩であった。 また、初瀬川をへだてた北方110mの県道南側に俗称 伏シオガミという飛地の遙拝所がある。 |
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長谷山口神社由緒略記 長谷山口神社は、桜井市大字初瀬小字手力雄に鎮座し手力雄明神ともいう。 古代は、隠口の泊瀬小国と称せられし大泊瀬山、小泊瀬山の長谷渓谷に位置し、風光明媚な所として知られ、和名抄には「長谷」といい「はつせ」とも呼んでいる。 長谷小国地方を一郷として長谷郷と呼ばれていた。 初瀬の語源は、古事記によると「初瀬川猶遠ければ此の地ぞ上瀬なれは初瀬か」とある。 当社は、手力雄命を主神として大山祗命を併せ祀り、延喜式神名帳に「長谷山口神社」と見え、神社明細帳に「祭神大山祗神、天手力雄神、豊受姫命、貞観元年正月授正五位下」とある。 豊山玉石集には、手力雄明神、大泊瀬山の西南の尾崎にあり、延喜式神名帳に「泊瀬山口神社という是なり」と、中世手力雄命を主神となし、大山祗命を配祀せり。 然れども、当社は六処山口社の其の一にして、即ち長谷の山霊を祭れる所なれば、もと大山祗命を以て主神となすべきなり、其の手力雄を祭り、且つ地名をも手力雄とする由来は詳ならず、云云と記されている。 或は仁平2年7月の裏書ある長谷勘奏記に依り、中世神座を転じたるものにあらざるかとも書かれている。 いわゆる、延喜式内社は醍醐天皇の延長5年(西暦927年)に作られた延喜式神名帳に記載されている神社をいう。 大古より長谷山の鎮として大山祗神を祀り、聖武天皇の天平2年(西暦730年)の大和大税帳には長谷山口神社の名が見え、当神社の古いことを物語っている。 長谷寺縁起文や古文書には、此の地は古くは三神の里といい、河を神河という。表参道朱塗の橋には神河橋と書かれている。 垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地に倭国伊豆加志本宮、また磯城厳橿の本ともいわれ、八年間天照皇大神を斎い祀り給いし旧跡であり、当時、随神とこの地に天手力雄神、北の山両部山中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。 長谷寺験記の冒頭には、長谷寺開山の時の天手力雄神の霊現と功徳が述べられている。 近世になり、明治41年初瀬平田の両部山南端の山麓の老松(「ようがの松」とよばれている)の附近にあったといわれる豊受神社に豊受姫命を祀っていたが、長谷山口神社に合祀され保食神で五穀豊饒の神として崇拝されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
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延喜式内社長谷山口神社 当神社鎮座地は字手力雄といい、景勝の地で、隠口の泊瀬山長谷山の鎮護の神として延喜式神名帳に見え、六処山口社の一社にあたる古社であって、ご祭神は大山祇神、手力雄神、相殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊験あらたかにして、あまねく人々の安泰繁栄と五穀豊穣の守護神として崇拝されている。 祭礼は正月、8月31日風鎮祭、12月9日例祭(俗に霜月祭ともいう)なお臨時の祈祷を行っている。 社務所 社頭掲示板 |
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長谷山口神社由緒記 当神社は長谷山の鎮の神として太古より大山祇神を祀っている。垂仁天皇の御代倭姫命を御杖として、この地域の「磯城厳樫の本」に約8年間天照大神をおまつりになった時随神としてこの地に手力雄神をまた北の山の中腹に豊秋津姫命を祀る二社を鎮座せられた。長谷寺縁起やその他の古文書によるとこの地方は三神の里初瀬川は神河表参道の朱塗りの橋は神河橋と書かれている。長谷寺験記の冒頭には長谷寺開山の時の手力雄神の霊現と功徳が述べられている。 聖武天皇の天平2年(730)の大和大税帳には長谷山口の名が見え、当神社の古いことを物語っている。延喜式内社である。 清和天皇の御代貞観元年(860)9月8日に風雨祈願の奉幣使が当神社に参拝されている。 中世には天力雄明神を敬う明神講が生まれ明神信仰は今に続いている。 当神社本殿の建築につき慶長18年(1613)の棟札が残っている。 近世になり、明治42年初瀬平田にあった豊受神社の豊受姫神(保食の神)を合祀している。当神社の鎮座は遠く古代にさかのぼり、由緒は極めて深く、あまねく人々の安泰繁栄と五穀豊穣の祈願所として広く知られまた氏子里人の守護神として崇敬されている。 本殿東の山上には磐境がありここより東約400mの南面山麓に横穴式古墳が残っている。 社頭掲示板 |
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長谷山口神社由緒記 当神社ば長谷山の鎮の神として大古より大山祇の神を祭神としている。第11代垂仁天皇の御代倭姫の命を御杖としてこの地域の「磯城厳橿の本」に約八ケ年天照大神をおまつりになった時、随神としてこの地に天手力雄の神北の山の中腹に豊秋律姫の神をまつる二社を鎮座せられた。 長谷寺縁起やその他の古文によるとこの地方は三神の里、川は神河、この附近の淵は神河浦と書かれている。第45代聖武天皇の天平2年(西暦730)大和大税帳には長谷山口神社の名が見られる延喜式内社である、近世になり明治42年初瀬平田にあった豊受神社の豊受姫神を合祀されている。 当神社は由緒は深く五穀豊穣、商売繁盛、の神としてうやまはれ国や家々の安泰と繁栄を祈願し氏子里人の守り神として、あまねく人々の敬い奉るところである。 社頭掲示板 |
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山口(坐)神社 やまぐち(にます)じんじゃ 『延喜式神名帳』に大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の山口神社と長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社が見え、いずれも大社で祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、また山城国には賀茂山口神社がみえる。四社のみ坐神社となっているのを、乾健治は地名を示すためか皇居に近いことを意味しているかであろうという。『延喜式四時祭』には、甘樫・飛鳥・石村・忍坂・長谷・吉野・巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・都祁・養生などの山口には各馬一匹を加えよとあり『延喜式神名帳』にない甘樫の名がみえる。『延書式祝詞』の祈年祭・月次祭に「山口に坐す皇神等の前に白さく、飛鳥・石村・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名をば白して……皇御孫の命の瑞の御舎を仕え奉りて……四方の国を安国と平らけく知ろし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、広瀬大忌祭に「倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫の命のうづの幣帛を……奉る。かく奉らば、皇神等の敷き坐す山々の口より、さくなだりに下し賜う水を……」とある。『延喜式臨時祭』の祈雨神祭に巨勢・賀茂・当麻・大坂・膽駒・石村・耳成。養生・都祁・長谷・忍坂・飛鳥・献火・古野の山口神社が預かっている。これらのことより、宮殿造営のため御料林伐採の際、山口に坐す神を祀ったこと、山口の水を司る神として、また祈雨神として奉祀されたことがわかる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に『神名帳』にみえる14社の山口神社中、夜支布山口神に正五位上、その他13社の山口神に正五位下の昇叙がみえる。 ▼長谷山口神社 奈良県桜井市初瀬町。旧村社。手力雄命・大山祇命を祀る。『新抄格勅符抄』に「長谷山口神二戸」とある。 今の山口社は手力雄神社で、最初の山口社は今の与喜天満宮とする説もある。 神社辞典 |
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長谷山口坐神社 大月次新嘗 長谷は波都世と訓べし、和名鈔、(郷名部)長谷、(假字上の如し)山口は、夜萬久知と訓べし、○祭神山神大山祇命〇初瀬村に在す、今手力雄神社と称す、見初瀬寺記、(大和志、同名所図会)、○式一(四時祭上)祈年祭條に、長谷山口加馬一匹、」同三、(臨時祭)祈雨祭神八十五座(並大)云々、長谷山口社一座、〇当國十三処山口の一座也、事は飛鳥社の下見合すべし、 類社 山城國愛宕郡賀茂山口神社の下見合すべし、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下長谷山口神正五位下、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申、大和國長谷山口神、遣使奉幣、爲風雨祈焉、 神社覈録 |
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