初瀬街道の傍、金屋聚落の西北に位置する。 大和国に置かれた六御県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布)の一つ 崇神天皇の磯城瑞籬宮の伝承地で境内には石碑も立っている。南には海柘榴市(つばいち)がある。 拝殿に向かって右側に磐境、磐座がある。山辺の道からわずかに離れていて、境内に桧、カシ、楠、杉が多い。 大和国の六つの御県の一つで志貴御県の国魂神を、志貴県主が祭つていたものであろう。 |
磯城瑞籬宮跡 第10代、崇神天皇の宮跡と伝えられています。 神山・三輪山を背後に歌垣の伝で名高い海柘榴市を却下に控えて、大和平野を見渡す高燥の地です。 東へは、泊瀬道、伊勢を経て東国へ。 南へは、磐余道、飛鳥を通じて紀伊方面へ。 北へは、山辺の道、奈良、京を経て北陸、日本海方面へ。 西へは、大和川の水運を利用して難波、瀬戸内海方面に繋がる交通の要衝です。 古代大和王権、発展の拠点であったとも言える場所です。 社頭掲示板 |
磯城県主 磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とします。 『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。 『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。 |
磯城瑞籬宮伝承地 磯城瑞籬宮は、第10代崇神天皇が営んだ宮とされています。 記紀によりますと崇神天皇の時、民が死に絶えてしまうような疫病が発生しました。 これは三輪山の神、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を探しだしました。 そして彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ祟りが鎮まり疫病がおさまったとされています。 また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇としてたたえられたと記されています。 記紀万葉の物語(崇神天皇の条)三輪山の神、大物主神 三輪山神婚伝承(おだまき伝承) 三輪山の神をお祀りした語 元伊勢伝承 箸墓伝承 四道将軍の派遣 活日の御酒献上 社頭掲示板 |
御県(坐)神社 みあがた(にます)じんじゃ 『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出つる廿菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社ほ大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、金剛寺本延喜式の頭注に「貞」とあるので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。 ▼志貴御県坐神社 奈良県桜井市金屋酉ノ垣内、旧村社。天津饒速日命を祀る。『新抄格勅符抄』に「志貴御県神十二戸」とある。例祭9月17日。 神社辞典 |
志貴御縣坐神社 大月次新嘗 志貴は假宇也、郡名に同じ、御縣は美阿加多と訓べし、○祭神詳ならず〇金屋村に在す、今志貴宮ど称す、(大和志、同名所図会) ○当國六御縣の一座也、事は高市御縣社の下見合すべし、 類社 当國高市郡高市御縣神社の下見合すべし 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下志貴御縣神從五位上、 神社覈録 |