桧原神社
ひばらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】巻向坐若御魂神社(大 月次/相嘗/新嘗)大和国 城上郡鎮座

   【現社名】桧原神社
   【住所】 奈良県桜井市三輪
       北緯34度32分18秒,東経135度51分17秒
   【祭神】天照大御神 伊弉諾尊 伊弉册尊
   【例祭】8月 28日 桧原神社祭
   【社格】
   【由緒】倭笠縫邑の地とされている

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 桧原神社
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。
それまでは宮中に祀られていた天照大御神を、初めて外で祀った「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」の地と考えられている。
天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代がある。


桧原神社

 (元伊勢)桧原(ひばら)神社と豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)の御由緒
大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」(向かって左の建物)は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は宮中にて「同床共殿(どうしょうきょうでん)」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎主)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)」に「磯城神籬(しきのひもろぎ)」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後もその御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山の辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。 また「茅原(ちはら)」は、日本書紀崇神天皇7年条の「神浅茅原(かむあさぢはら)」の地とされています。
更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホケノ山古墳」(内行花文鏡出土・社蔵)」があります。
大神神社

社頭掲示板



桧原神社

檜原神社(ひばらじんじゃ)
祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
社祭日 8月28日
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。
大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。
境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。
万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

公式HP



桧原神社平窯跡

鎌倉末から室町時代(14世紀)にかけての平窯、昭和62年7月の発掘調査で検出された。焼成室の底部しか残っていないが、窯の全体規模は幅約80cm長さ約160cmをはかり幅と長さは1対2の比率になっている。火道は3本で、火道のあいだの畔には平瓦片と粘土が交互に積まれている。
瓦窯とみられるが、室町時代の瓦器(かき)椀が周辺部で以前に出土し、今回もその破片が出土していることから同時に瓦器を焼成した可能性も考えられる。
中世の桧原神社とかかわりの深い遺構であろう。
大神神社

社頭掲示板



巻向坐若御魂神社 大月次新嘗

巻向は末岐牟久、」若御魂は和加美牟須毘と訓べし○祭神明が也〇三輪山北巻向檜原に在す、(大和志、同名所図会)、○日本紀神代巻上、一書云、軻遇突智娶埴山媛生稚産霊、○同紀、纏向珠城宮、(垂仁天皇)、纏向日代宮、(景行天皇)○式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稲、大和國纒向社、三十束、送住道社、(全文大和國葛上郡鴨神社の條見合すべし)
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從五位下巻向若御魂神從五位上、

神社覈録






大和国INDEXへ        TOPページへ


学校一覧 学校一覧 高精度の学校住所録