室生寺から室生川に沿つてさかのぼること約1Km、街道に面した古杉叢樹の中にあり、室生寺から社の背後にかけては欝蒼たる樹木におおわれた尖峰が屹立している。 境内には杉の巨樹多く叢林をなしており、特に西南隅の道路ぎわにある杉は目通り約8.5m、樹高約20mにおよぶ巨樹で龍穴杉と称せられている。 古来祭神は龍神もしくは龍王といわれていた。室生山中の岩穴は古くから信仰の対象とされていた。その岩穴を龍穴と考えるようになり、ここに龍穴信仰がおこり、龍王常住の処とされ、室生龍穴神社が建てられ龍王を祀つたのであろう。 神社としての創祀は明確には出来ないが九世紀前半にはすでに存在していたと思われる。 神宮寺は室生寺であり、皇大子山部王(桓武天皇)が御病気に罹られた時、浄行僧をして室生の山中で延寿の法を修せしめられたところ、御病気が平癒された。その後に賢憬が仰せをうけここに山寺を創建したとある。室生寺ははじめ延寿の法を修する場であつたが、やがて八世紀末に龍穴神の宮寺の性格をもつ寺として創建されたものと考えられる。 古来より当社は室生寺の支配下にあつて、祭祀は主として仏式で行なわれたようである。 伝説に、奈良の猿沢池に住んでいた善達龍王は或る日采女が池に身を投げて死んだので、死穢をきらつた龍王は春日山の香山という所に移り住んだが、ここ香山でも死者が絶えなかつたので遂に室生の龍穴に住むようになつたと云う。 天応元年(781)から承平7(937)年までに29度、朝使・国宰が互に相参登して請雨・止雨の祈祷を龍神に致しその都度感応があつたという。 、 |
由緒 当社は、宇陀郡室生村大字室生に鎮座しており、主神は高龍神、合祀に天児屋根命、大山祇命、水波の能売命、須佐之男命、埴山姫命をお祀りしている。 掲示板の御由緒書きに、「主神高龍神は伊弉那岐大神其御子迦具土神を斬り給へる時生れませる神にして水火を司るの威徳を具へ給ひ晴雨を調節して国土民生を安んじ給ふ。蓋し農を以て国の本とするが我国古来の伝統的民族信仰として旱天に慈雨を祈るの風潮野を挙げて後を断たざりし所以にして、木津川淀川の上流の当地に此大神の鎮まります事深く故なしとせず、随って古来暦朝、朝野の信仰篤く祈雨止雨の奉幣に預かり給ふこと度々にして神階は度々昇敍されて應和元年正四位下に敍せられ給ふ。延喜の制貴船、丹生等の社と並びその神威嚇々たる官幣の小社に列せられ、所謂式内社として近畿一円に衆庶の信仰篤く以て今日に及べり。配祀の祭神は古来聚落の叢祀に奉斎せしを明治末期に合祀せり」と記す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
室生龍穴神社御由緒 祭神 高おかみ神 配祀 天児屋根命 大山祇命 水波能売命 須佐之男命 埴山姫命 主神 高おかみ神は、伊邪那岐大神其御子迦具土神を斬り給へる時生れませる神にして、水火を司るの威徳を具へ給ひ、晴雨を調節して国土民生を安じ給ふ。 蓋し、農を以て国の本とする我国古来の伝統的民族信仰として旱天に慈雨を祈るの風朝野を挙げて後を絶たざりし所以にして木津川、淀川の上流の当地に此大神の鎮まります事深く故なしとせず。随って古来歴朝朝野の信仰篤く祈雨止雨の奉幣に預り給ふ事度々にして神階は度々昇敍されて應和元年正四位下に敍せられ給ふ。延喜の制貴船丹生等の社と列びその神威赫々たる官幣の小社に列せられ所謂式内社として近畿一円に衆庶の信仰篤く以て今日に及べり。 配祀の祭神は古来聚落の叢祀に奉斎せしを明治末年に合祀せり。 社頭掲示板 |
龍穴神社 延喜式(967)内の古社で、雨神タカオカミノカミを祭り、雨ごいの神として知られています。神域には龍穴と呼ばれる洞穴があって、いまでも雨こいの行事が行なわれています。 この神社は室生寺よりも古く、室生寺は龍穴神社の神宮寺ともいわれ龍王寺と呼ばれていた時期がありました。 社頭掲示板 |
室生龍穴神社 室生は牟呂布、」龍穴は音読にて里宇気都と訓べし、○祭神詳ならず〇室生村に在す、(大和志、同名所図会)、 当社龍穴神と称しゝは、神名にあらず、地名にあらず、考証に、文選呉都賦云、其荒阻鏑訛則有龍穴云々、劉曰湘東新平縣有龍穴、々中黒土、天旱人々便共以水沽此土、則暴雨応之、常以此請雨也、とある故事を引り、こは丹生の雨師と同じ類ひなるべし、神號を申さば高おかみ闇おかみなどにもやあらん、○松下見林云、室生山記曰、室生山寵穴事、彼山有三龍穴云々、龍穴之底入十五丈、有五丈池、左右有穴、左穴最方也、此内有石戸、広三尺厚二尺、以為戸扉云々、此内入七尺、大岩有之、從地一尺三寸上有最方穴、廣一尺八寸高一丈五寸云々、 神位 三代実録、貞観9年8月16日壬午、授大和國從五位下室生瀧穴神正五位下、日本紀略、延喜10年7月16日癸卯、先是、三箇日、雨快降、人庶以為、依雲於龍穴也、8月23日授大和國龍穴神從四位下、応和元年8月14日乙巳、授大和国坐從四位下室生龍穴神正四位下、 祈雨 日本紀略、弘仁9年7月丙申、遣使山城貴布禰神社、大和國室生山上龍穴等処、祈雨也、」符宣抄三、左弁官、下興福寺、応転読仁王般若経祈請甘雨事、右炎旱方熾、霜澤不降、自非帰佛神之冥助、何得期稼■之豊穰、左大臣宜奉勅宣仰彼寺、令権少僧都定澄卒浄行僧十口、差遣室生山龍穴神社、始從今月18日辰二点、五箇日間、殊致精誠転読仁王般若経、祈請廿雨者、寺宣承知、依宣行之、但供■新米可充行之山、下知当國巳畢、事出綸旨不得緩怠、長保4年6月15日、大史小槻宿禰判、権中辮源朝臣、(供■新米符略之)また左弁官、下綱所権律師観照、番僧十口、右左大臣宣、奉勅、件観照等為祈甘雨、差遣大和国室生山龍穴神社、始從今月8日、三箇日間、殊致精誠、転読仁王経、祈請甘雨者、綱所宜承知、依宣行之、但其供采料可蓮送之状、下知彼國巳畢、長保6年7月6日、右大史坂本朝臣、中弁藤原朝臣(供采料符略之)また萬寿2年7月18日同前の符あり、百練抄、仁治元年7月14日丙子、奉幣十一社為祈雨也、又室生寵穴被奉官幣、使大小臣氏人、 当社かゝる祈雨の神として祭れるは、後世の習俗なるべし、祈雨祭式八十五座には洩れ給へり、 神社覈録 |