剣主神社(宮奥)
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   【延喜式神名帳】剣主神社 大和国 宇陀郡鎮座

   【現社名】剣主神社
   【住所】奈良県宇陀市大宇陀区宮奥116
       北緯34度27分24秒,東経135度55分8秒
   【祭神】剣主根之命
       神社明細帳に「祭神不詳」
       『神名帳考証』剣根命
       明治14年調査『大阪府地誌』素盞鳴命

   【例祭】10月8日 例祭
   【社格】
   【由緒】不詳
       寛文4年(1664)5月4日社殿造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地は西北方へ約550m程の岳山山頂
        現社地は遥拝所であったとおもわれる
        江戸末に本殿が造営

   【祭祀対象】岳山の白色の巨岩
   【祭祀】俗に「白石大明神」・「白石明神」とも称す
   【社殿】本殿トタン葺 朱塗春日造
       江戸末に本殿が造営されるまでは社殿なかった
       神門・拝殿・集会所・社務所・手水舎

   【境内社】

熊ケ岳、龍門岳に源を発する西川(富ノ奥川)が両岳より伸びる尾根の間を西北へ流れ、その流れに沿ってひらけた帯状の狭い耕地の北に山地を背にして鎮座。
山裾の神社であり、境内に杉樹が多い。奥に大きなダムがある。
江戸末に本殿が造営されるまでは社殿なく、現社地は遥拝所であったとおもわれる。本殿の周囲に白色の硅石が数個ある。
当社ははじめ奥宮と称せられた岳山の白色の巨岩を信仰の対象としていた。今鎮座地の西北方へ約550m程距たつた山頂に硅石の巨巌が聳立し、そのうちの一巨石を奥宮と称して神聖視されていて磐境の遺構と考えられる所があるが、この地域は「明神の尾」と称せられて例祭には必ずここに参拝し参籠するのが慣例になつていた。
この明神之尾の北側の地は字「ズイコク」「ジョロヤシキ」と称せられており、ここに宝林山瑞谷院があつたと言われ白石明神の奥之院に当り、剣主神社奥宮と称して神祭行奉を社僧が執行していたと伝える。
瑞垣内に大白石があり、その前に本殿が建つていることからも白石に対する信仰であることがうかがわれる。


由緒

当社は、宇陀郡大宇陀町中宮奥の宮奥川の左岸、白石に鎮座の社で、「延喜式」神名帳剣主神社にあてられている。「大和志」に、宮奥村に在り、石段有りて社屋なし、土人伝えて故実となす、とあるが、俗に白石名神とも称し、本殿の周囲に白色の硅石が数個ある。後方の山頂にも白石群があり、当社の奥の院といっていた。江戸の末期に本殿が造営されたが、それまで社殿なく、白石群を神体とし、例祭などにはここで參籠したと伝え、今の社殿のある付近は、かっての遥拝所であったというから古代日本の祭祀形態が、近世末まで残存していたことになる。背後に宝林山瑞谷院という神宮寺があったと伝える。
祭神について「神社明細帳」や「宗教法人法による届出書」には「祭神不詳」とある。伴信友の「神名帳考証」では、「新撰姓氏録」大和国神別の条に「葛木忌寸、高御霊命五世孫剣根命の後也」とある剣根命を祭るとある。
例祭は9月9日で、5日に本年、明年、明後年に祭主を勤める当屋は、吉野郡河原屋の大汝宮社前の吉野川で斎戒沐浴、川石1個を拾って帰り、清浄な竹、杉皮でお仮屋を作って神前で使用した雲かわらけを御神体として納める。9日の祭典に当る当屋は毎月1日、16日、28日の3回、吉野川から持帰った小石を宮奥川上流に沈めて、その下流で禊する。当屋役が終わると、その小石を剣主神社の背後山頂にある白石の磐座で通称白石さんの神前に供える例である。なお一説に、大宇陀町下宮奥鎮座の天照大神を祭神とする神社と、同町半坂に鎮座の祈雨・止雨神で、祭神素戔鳴命・経津主命・葺原醜男命とする同名の神社を、式内社とする説もある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



祭礼

例祭は9月9日で、5日に本年、明年、明後年に祭主を勤める当屋は、吉野郡河原屋の大汝宮社前の吉野川で斎戒沐浴、川石1個を拾って帰り、清浄な竹、杉皮でお仮屋を作って神前で使用した雲かわらけを御神体として納める。
9日の祭典に当る当屋は毎月1日、16日、28日の三回、吉野川から持帰った小石を宮奥川上流に沈めて、その下流で禊する。
当屋役が終わると、その小石を剣主神社の背後山頂にある白石の磐座で通称白石さんの神前に供える例である。



劒主神社

劒主は都留岐奴志と読り〇祭神詳ならず○営奥村に在す、有石壇無社屋、土人相伝為故実、(大和志、同名所図会)、

神社覈録






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