鎭座地は芳野川の西岸の丘陵で、芳野川を隔てて東正面に都賀那木神社の鎮座する伊那佐山が望まれる。 『神名帳考証』に「僅存遺跡云々」『大和名所図会』に「礎のみ遺れり」とあって、延宝9年(1681)ごろ社殿の荒廃はかなり進んでおり、石造の宝殿のみがわづかに遺跡に残り、「をとごろす」とも称せられて僅かに祭祀の跡が維持されていた。文政頃社殿の造営が行なはれた。 博説によれば、當社の南方にある丸塚古墳は八咫鳥の陵墓であるとされている。 現社地は伊那佐山の山頂に祀られていた八咫烏神社、即ち都賀那木神社(貴船社に改称)の遥拝所であったとも伝えられている。 山麓の神社。敷き砂厚く、境内きれいである。 |
由緒 当社は、宇陀郡榛原町高塚に鎮座しており、建角見命をお祀している。 創祀は慶雲3年(奈良時代)に大和の宇陀郡に祀り始められたとされ、東征のときの先導となった大伴氏や、八咫烏の子孫と言われる賀茂氏等の氏族がこの祭祀のため、大いに努力したとみることができ、京都地方の鴨県主は八咫烏の子孫であると伝承している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
八咫烏神社略縁起 皇祖神武天皇熊野より賊軍を御東征の御砌り、道なき峻険の山々をかきわけ宮居を定めんと、たたなめて伊那佐の山にお登りされんとした時、この土地の豪族で偉丈夫の武角身命が全身真黒い衣をまとい高い木より木へと飛び移って宮居の方に天皇をご先導申し上げた。その姿が恰かも八尺もあるような大烏の様であったので、天皇はその勲功を賞でて八咫烏の称号をお与えになった。慶雲2年9月天武天皇が武角身命を祭神として、当社と指呼の間にある伊那佐山麓のここ高塚(鷹塚)に八咫烏神社を創建して祭る。三足の烏を当社の絵様としまた山城国下加茂神社の旧神宮は鴨の県主で祭神武角身命の苗裔である。従って葵を以て両社の神紋とされた由緒はここにある。 社頭掲示板 |
八咫烏神社 当社は延喜式神名帳記載の式内社で、我が国の草創期の正史のひとつである『績目本紀』文武天皇の御代に《『慶雲2年(西暦705〉9月丙戌』、『大倭國宇太郡』に『八咫烏社』を祭る》と記述が見え、これが当社の創祀となっています。 御祭神は建角身命(たけつぬみのみこと)です。 建角身命とは伝承によると、神武天皇が大和へ東遷する折、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した「八咫烏」の化身と伝えられています。 このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられています。(※1) しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後、江戸時代中期まで廃絶寸前の状態となり、社の衰微にともなって、いつしか「やたがらす」が訛って「をとごろす」という俗称が残ったほどだと伝えられています。(※2) やがて、江戸時代の文政年間になって、京都の下鴨神社(賀茂御祖神社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興されました。 本殿が現在のような春日造に作り替えられましたのもこの頃です。 (なお旧本殿の石造小祠は今も本段の横に現存しています) それ以降、例大祭の折には下鴨神社から奉幣使が送られ、祭典が執り行われてきましたが、奉幣使をともなう大祭は当時わずか九戸ばかりの貧村であつた当地の氏子には負担があまりにも大きかったため、明治初年にそれも中止(※3)を余儀なくされました。 その後、大正3年の神社合祀令により近隣の鎮守の神様が当地でまつられることになったため、にわかに再興しました。 また、昭和の時代になって紀元2600年を記念し、県社に昇進するにともなつて神域の拡張と整備が行われました。 以降、現在へと至ります。 ※1「八咫烏神社略縁起」 文政13年庚寅年 蔵人民部大丞兼左兵衛大尉大江朝臣俊常 ※2「和州旧跡幽考」延宝9年、林宗甫 ※3、宇陀郡史料 公式HP |
八咫烏神社 武角身命(建角身命)を祭神とする八咫烏神社は、『続日本紀』に慶運2年(705年)9月、八咫烏の社を大倭国宇太郡に置いて祭らせたことがみえ、これが当社の創祀となっています。江戸時代(文政年間・1818〜1830)には、これまで石神殿であったものが春日造りの社殿となりました。その後、期限二千六百年を記念して社域を拡張・整備し、現在に至っています。 『古事記』『日本書紀』によると、神武天皇が熊野から大和へ入ろうとしたときに道案内し、重要な役割をつとめたのが八咫烏(武角身命の化身)です。八咫烏は、中国の陽鳥としての考え方が影響しているようです。 八咫烏伝承は、もともと宇陀の在地氏族に伝承されていたと思われますが、8世紀以降、山城の賀茂県主が有力となってからは、賀茂氏が祖とする武角身命が八咫烏となったようです。 八咫烏神社 榛原町教育委員会 社頭掲示板 |
八咫烏神社 やたがらずじんじや 奈良県宇陀郡榛原町高塚。旧県社。祭神、建角見命。通俗オトゴロス社。創立は不詳であるが文武天皇慶雲2年(705)と伝えられる。『延喜式』に鍬靱を寄せられ、『神武紀』に八咫烏について記され、『新撰姓氏録』にも神武東征のとき道を失った折、鴨建津見命が大鳥となって導いたとある。京都下賀茂社の旧神宮は鴨県主の子孫というので、古来当社に一度は参拝するか奉幣使を送ったが、明治初年頃貧村のゆえ、これを中絶した。例祭10月21日。 神社辞典 |
八咫烏神社 鍬靭 八咫烏は夜多加良須と訓べし〇祭神賀茂建角身命○鷹塚村に在す、(大和志、同名所図会)、 姓氏録、(山城國神別)鴨縣主、賀茂縣主同祖、神日本磐余彦天皇、(諡神武)欲向中洲之時、山下険絶、跋渉失路、於是神魂命孫、鴨建津之身命、化如大烏、翔飛奉導、遂達中洲、時天皇喜其有功、時厚褒賞、八咫烏之號、從此始也、 鎮座 続日本紀、慶雲2年9月丙戌、置八咫烏社于大倭国宇太郡祭之、 神社覈録 |