椋下神社
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   【延喜式神名帳】椋下神社 鍬 大和国 宇陀郡鎮座

   【現社名】椋下神社
   【住所】奈良県宇陀郡榛原町福地1
       北緯34度31分57秒,東経135度57分42秒
   【祭神】高倉下命
       『特選神名牒』天照大御神
       『宇陀旧事記』天照皇大神、高倉下命、神倭磐余彦天皇、十二將神

   【例祭】11月3日 例祭
   【社格】
   【由緒】慶雲2年(705)八咫烏神社と同時に勅祭
        安永8年(1779)京都卜部家に宗源宣旨を乞う
        天保3年(1832)3月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】もとの鎭座地は福地岳の山中「くらかけ」の地
        何時の時代にか当地に遷祀

   【祭祀対象】福地岳
   【祭祀】
   【社殿】本殿銅板葺神明造
       拝殿・神門・社務所・神職詰所・手水舎

   【境内社】金比羅神社・荒神神社・石椋下神社

宇陀川と約3.4km下流で合流する玉立川の西岸、青山越伊勢街道と伊賀街道の分岐点にあたる交通の要地に展開する福地集落のほぼ中央、伊勢街道に南面して鳥居が立ち、北側の高地に鎭座する。前面には宇陀川を挾んで約1km、東南に標高521mの福地岳がある。 境内は線路の近くにあり、狭く本殿は高いところにある。もとの鎭座地は福地岳の山中「くらかけ」の地で何時の時代にか当地に遷祀されたと伝えている。
神武天皇が紀伊国熊野邑に到った時に、高倉下命が横刀を献上した功によつて同郡高塚村に八咫烏神を勅祭された慶雲2年(705)9月に同じく勅祭をもつて創祀と伝えている。
今高倉下命を祭神としいるのは、前社地が福地岳にあつたと伝えているが福地岳は別名タカクラ山と称せられ、社名また「クラジ」と称するところから出たのであろう。
中古に桜島寺という神宮寺があったが文政の終わり頃廃寺となり本尊地蔵菩薩等は今は地蔵堂に安置されている。
「神名帳考証」や「大和志」は当社の式内社比定を否定、所在不明としている。


椋下神社

当社は、宇陀郡榛原町大字福地に鎮座しており、本殿に高倉下命、境内社に大名牟遲命、軻遇突知命、猿田彦神をお祀りしている、式内社である。
神武東征の砌、天皇遠く熊野に迂回この地に上陸される、熊野の女首長丹敷戸畔の反撃にあい、正に敗滅の危機に遭遇する。天照大神之を知り武甕槌神に救援を命ずる、武甕槌神「私が参らずともここに在る国土平定の際に用いた国平剣がありますから、之を下さば必ず平定されるでしょう」と剣を高倉下命に下げ渡さる。高倉下命夢のお告げで之を知り倉を見ると夢の如く剣があり、命は直ちに部下を集め丹敷戸畔の背後から攻撃し、天皇勝利を得ることが出来た、高倉下命之を天皇に献上し奉った、之をフツの御霊の剣と言う。この功に依り慶雲2年(705)八咫烏神社と同時に勅祭されたと言う。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




椋下神社

「古事記」「日本書紀」によると神武天皇東征のみぎり熊野へ到着されたとき荒ぶる神の毒気に当たって、一行の者は皆気を失い倒れ伏してしまった。このとき高倉下命は自分の倉板に突き刺さっていた天の神の下された剣を献上した。その剣の霊威によって天皇はたちまち悪神を平らげて中つ国へ兵を進められたとある。この剣はのち石上神宮に祀られたが高倉下はこの功により文武天皇慶雲2(702)年に八咫烏神社と同時に祀られたと伝える。
もと福地山(高倉山)の山中に祀られていたが何時の頃か現在地に遷座されたともつたえる。なお中古に桜島寺という神宮寺があったが文政の終わり頃廃寺となり本尊地蔵菩薩等は今は地蔵堂に安置されている。

社頭掲示板



椋下神社 靭

椋下は久良之毛、また無久毛登と読み、熟れか未考へず、〇祭神在所等詳ならず

神社覈録



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