標高610mメートルの白銀岳は一名銀峯山とも呼び、頂上は広い丘陵で、その中央最高所に鎮座する。付近にはつい近年まで白銀村役場や小学校もあつた。 付近一帯は銅の鉱脈を埋藏し神社の下方近くに探掘坑の跡がある。近年道が開けて神前まで車が通じる。 本社の南方やや西寄り約500mの竜王山は標高618.8mの円錐形の山で、太古以來この地方の山岳信仰の中心として周辺の各神社はすベてこの山に向つて鎭座するといわれてきた。 口碑によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、この山に休んでいると、白昼がにわかに暗闇になったので、ここの神に祈ったところ、再び日が照り、明るくなった。地名の「夜中」はこれに由来するという。 また役小角がこの山で秘法を行ったところ神女が現れ、国家を鎮護し群集を伝導せよと告げて石窟に入ったので、神蔵大明神と呼ばれる行場となり、大峯修験の先達が来山して入峯修行をしたとも伝わる。 本社が要害堅固な地形のため、延文5年(1360)4月大塔宮の御子吉野將軍宮が赤松氏範や吉野十八郷の兵200余騎と野伏3,000人を召具して、ここにたて籠った。 神仏混淆期には神宮寺「銀峯山神功寺」があった。神社の南に奥ノ院跡とする場所がある。 山霧深く写真撮影は困難であった。 |
奈良県指定有形文化財 波宝神社 本殿二棟 ここ白銀岳(612m)は、古代から神の山として信仰を集めていたようであるが、当神社は平安時代になつて、天安2年(858)に官社となり、延長5年(927)の延喜式神名帳にしるされる古社である。上来、大峯修験と深いかかわりを持ち、また境内には、明治初年まで「銀峯山神宮寺」があった。 祭神は、住吉大神と神功皇后とされている。 現本殿は、江戸時代、寛文12年(1672)の再建で、左右二殿より成る。各一間社春日造、檜皮葺、両殿前面を板壁などで連ね、一つづきの建物のようになつている。春日造社殿をつなぐ他の例に比べて、当本殿の場合、縁廻りなど一体感の強い構成となり、連選棟社殿形式の展開を示す遺構として、その資料的価値は高い。県内における十七世紀の特異な形式の神社本殿として重要である。 西吉野村教育委員会 社頭掲示板 |
波宝神社 ご本殿の建物は人皇第112代霊元天皇の寛文12年(徳川五代将軍綱吉公の時代)昭和60年から逆算して312年前に改造完成したもので、その後桧皮屋根替工事は慶応2年及大正2年8月と最近では昭和36年8月に大修理と共に完成したものであります。 右の御社殿には住吉大明神(底筒男命、中筒男命、上筒男命)を御祀り申し上げて居ります 住吉の大神様は伊弉諾尊が筑紫の日向の橘の小戸の檍原に祓除せられた時に生まれた神様であります。・・・・神・航海・交通の守護の神様であります。 左の御社殿には人皇第14代仲哀天皇様の皇后息長帯日売命(神功皇后)を御祀り申し上げてあります 皇后は新羅御遠征に当って住吉大神の御加護を得て大いに國威を輝かせられ御凱旋の後大神の御神託に依って此の地に御鎮座になりました 神功皇后の御功績の有りましたのは15代應神天皇時代で今から約1780年前になります。 社頭掲示板 |
波宝神社 波寳神社は白銀嶽に鎮座す式内郷社なれども祭神創祀等明瞭せず社壇は寛文12年12月の改築にして文政元年6月に拝殿を造榮したり中世は神宮寺の保管に属し社僧義仙の時に神饌所(嘉永7年7月)と社務所(天保13年8月)とを再建す以降幾多の星霜を経て王政復古と共に神仏混淆の■を脱し獨立となれり この霊域に嚴島神社(狭依毘賣命)稲荷神社(宇賀御魂命)事比羅神社(大國主命)水神社(彌都波能賣命)菅原神社(菅原道眞公)等あり其他神饌所には應神天皇を崇敬し祖靈社は明治12年5月に新設せられて村内神道家の祖先を合祭す又本社より六町南方に御旅所ありて例祭の際神霊を渡御するところとせり 白銀村史 |
日食画 『西吉野村史』には「神功皇后が三韓征伐から帰還され、南紀に赴かれ る途中、この山で休まれた際(あるいは南紀日高からこの地小竹宮に還られた際)、にわかに白昼であるにもかかわらず、夜中のように暗くなり、神に祈られるとふたたび日が照りだし明るくなった。このことから安場の地名を「夜中」と呼ぶようになった」とある。 波宝神社の本殿は一間社春日造の本殿二棟の間の前面を板壁で連結させた「連棟社殿形式」の特異な建築物であるが、二つの本殿をつなぐ板壁には、神社の由来を表現した彩色画が描かれている。 縁下の波の絵柄に対し、上部板壁中央には力強い十数本の太い光彩を放つ金色の大きな太陽の上半を描き、左に一羽、右には二羽の慌てて飛び立つ三羽の丹頂鶴が描かれている。さらに中央の黄金の太陽の前に、右下へずれて重なる同じ大きさの銀色(酸化して暗灰色)の半円つまり月が描かれている。 |
波宝神社 はほうじんじや 奈良県吉野郡西吉野村夜中。神の蔵宮・古田大明神・若桜宮ともいう。祭神、上・中・底筒男命、神功皇后を祀る。『延喜式神名帳』に「波宝神社鍬」とみえ、天安2年(858)官社に預かり、貞観8年(866)従三位を受ける。伝承には、大宝元年(701)役行者がこの山に入り、秘法を行なうと神女があらわれ、国家を鎮護し、群衆を化導すべしと告げて石室に入ったので神蔵大明神と称し、行者の行場となり大峰山参詣の先達は修法を毎年行なうという。 神社辞典 |
郷社 波宝神社 祭神 底筒男命 中筒男命 上筒男命 神功皇后 本社創建年代詳ならず、文徳天皇天安2年3日己丑官社に預り、同年4月癸丑從五位下より從四位下に進められ(文徳実録)清和天皇貞観6年6月23日戊寅從四位上を授け、同8年11月4日乙巳從三位に進めらる(三代実録)俗に神藏宮と称し、古田荘十二ヶ村の氏神なり (大和志、大和名所図絵)明治6年郷社に列す、毎年9月8日祭を行ふ(奈良県神社取調書) 社殿は本殿、拝殿、神饌所、社務所、土蔵等を具へ、境内3694坪(官有地第一種)、白銀岳の山頂に在り。 明治神社誌料 |
波宝神社 鍬 波宝は播褒と読り○祭神詳ならず○夜中村の東、銀峯に在す、今神蔵宮と称す、(大和志、伺名所図会〉 神位、官社 文徳実録、天安2年3月己丑、在大和国從五位下波宝神、預官社、同年4月癸丑、從五位下波宝神、授從四位下、三代実録、貞観6年6月3日戊寅、大和國從四位下波宝神、授從四位上、同8年11月4日乙巳、大和国正四位下波宝神、授從三位、 神社覈録 |