吉野町の東南端南国栖字大倉と川上村の西北端にある東川字深山との境界山腹にある標高1120mの丘陵に鎭座する。山中。深山バス停付近より一気に直登(細い山道)した。自動車で入る道あるが入り方は地図になく不詳であった。地元で聞けば分かるかもしれないが。 元五社峠に祀りし川上鹿塩神社五堂の中の二座を分けて移したとの伝承もある。 古来川上村東川と国栖郷六ケ村(南国栖、新子、野々口、窪垣内、大野、入野)計七ケ村の氏神として祖神を祠つてきた。 本社境内地西側に相當広い神宮寺の屋敷跡がある外、創設が室町中期を下らぬ小泉水庭跡がある。神域北方の井戸から水を引いて池を堀り島を築き楓の老木やつつじの植込みや立石など、吉野山中の古庭園遺跡として文化財的意義高く県指定の名勝である。 神域の下方西南寄り約百数十メートルの傾斜地に高さ約10m、幅約20mにも及ぶ巨岩があり、土地では俗に「カニイワ」(神石)と称して崇敬している。古代の巨石信仰を伝える遣跡「磐座」とも思えるが、国栖部の祖神の穴居遣跡と伝えている。 |
大蔵神社 吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。 神前一対の石灯籠の右側は弘化4年(847)東川若連中から、左側は天明6年(1786)国栖郷から寄進している。 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は9月1日初遡祭として親しまれてきた。 本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応5年(1292)5月25日 藤原□□敬白」との針書がある。 大蔵神社庭園は室町期の標高303mの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
庭園 県指定名勝 大蔵神社庭園 昭和48年3月15日指定 この庭園は高さ1mの吉野渓谷産の巨石を中心としてつながった二つの池を配している。本来これらの池は、泉から引かれた導水路による流水施設となっていたらしく、大泉水庭園とされる遺構である。 池割や石組の様式は、近畿地方では僻遠地に残る地方武士居館跡の庭園跡に類例があり、滋賀県高島郡朽木村旧秀隣寺、三重県一志郡美杉村北畠神社の泉水の形状などに類似している。たま、日本庭園としては珍しい標高300メートルの高所に位置し、吉野川上流の渓谷と、その対岸の高峰を借景にしている。これらの特色から、その創造年代は室町時代中期を下らないと考えられている。 近世においても補修工事が全く認められず、日本庭園史上からも尊重すべきものである。 平成七年三月 奈良県教育委員会 社頭掲示板 |
大蔵神社 或ハ大藏神社又ハ川上鹿塩神社ト云フ(中略)口碑ニ此神ハ元五社峠ニ祀リシ川上鹿塩神社五堂ノ中其ノ二座ヲ分テ移シタルモノト、年代ハ考フベカラズ(中略)神名帳ヲ按スルニ國栖荘七ケ村ノ氏神トアレバ或ハ其祖石穂押別神ヲ祭リシモノカ今モ尚ホ東川國栖ノ二村ヨリ奉供ノ餅撒ヲナシ祭礼ヲ行フ 『吉野郡史料』川上村史 |