西河の川の北岸旧道より北へ山道入る細い道。宮滝大橋渡って80m中山トンネル80m手前を左に入る。関西電力の用水路のところ。車1台がギリギリの林道をひたすら登る、舗装はされている。突き当たりが神社。 樫尾・西河・南国栖三大字の境界点にあり、古来山麓三ケ村からの参道があつた。 古来国栖の祖神を祀る国栖郷(町村合併以前の中荘・国栖と小川・川上の一部を総称)の総氏神とされている。 明治時代に二十一年毎本殿改築を契機に、一時宮元の樫尾所在の無格社十二社神社境内に遷座して口の宮と称し、新造された元の本殿には別の御霊代を奉安して奥の宮と呼び、祭典も毎年両世で執行されてきた。ついで昭和15年に口の宮を廃して奥の宮一元とし、境内拡張社殿の大営繕を行なつて県社ヘの昇格を奔走したが、第二次大戦のため沙汰止みとなる。 100町歩に及ぶ社有林の所有をめぐって争いがたえず、明治30年代にこれを分割して樫尾、西河・大滝三大字のみの産土神となった。その後さらに社有林を分割し西河・大滝が離脱、樫尾のみで祭祀を続けて明治35年に十二社神社の傍らに遷座。昭和15年に旧社地に帰ったという。 今神社付近の山頂近く南面した十数メートルに及ぶ大岩が突出して地名を大藏谷と呼ぶ外、南山麓の西河ではこの山を白倉山と称し、古來ここの神を大倉明神と呼んだのは石押別神を祭神とする所から来たとの地域伝承もある。 |
式内川上鹿塩神社の由来 御祭神 天照皇大神 忍穗耳命 瓊瓊杵命 醍醐天皇の延喜2年(901)に制定された延喜式神名帳に記載されている官幣小社と称され、近郷で最も格の高い最古の式内社であり、延喜式には小社に列し、祈年祭の幣に鍬一口を加えられたとある。 氏子はひとり中荘郷だけでなく、川上村・吉野町・東吉野村から下市町・大淀町の広範囲に及んでいたものである。 往時は中荘・国樔・川上・小川の郷社であったが、のちに大滝・西河・樫尾三大字の産土神となり又大滝・西河も分かれて、今は唯樫尾のみにより祭祀を続けているものである。 社殿は神名造り(伊勢神宮と同形式)の神さびた「かや葺」で昔から21年目毎に式年遷宮を続行してきたが、今の社殿は明治34年(1901)に改築されたままになっている。また本殿の覆家は、昭和18年2月(1943)に改造上棟の棟札がその古跡を物語るあかしとなっている。 またこの地は「古事記」応神天皇の西暦270年の条に見られる吉野の白檮生に当たる所以がうかがわれる。 (注)(古事記・日本書紀)の記事によると、上代にこの社頭の白樫の下陰で御酒をかもしたことがあって、それがやがて地名になったと思われるとも記されている。後世、本居宣長翁の菅笠日記上の巻(刊行されたのは西暦1794年光格天皇時代にも「鹿塩神社の御事をたづねはべれば、そは樫尾・西河・大滝三村の神にて西河と樫尾のあわいなる山中に、今は大蔵明神と申しておはす云々」と記されているところから、鹿塩神社と大倉大明神は同じ神域で上代より祭祀されていたことが理解されるものである。明治35年に現在地の十二時の傍らに遷り、昭和15年まで祭祀が続いたが、それ以後は旧社地の五社へ遷り現在に至っている。 創立は定かではないが明治初年の記録によると、天智天皇の10年(671)に改築した棟札が本殿内に納められていたとあるので少なくとも飛鳥朝以前の創設ではないかと思われる。 祭典は7月9日に執り行われ小麦餅を供えるのが例とされている。 (付記)昭和22年に発生した五社大火の際奇跡的にも当社殿は焼失を免れたことを忘れることができない。 (1998.11吉祥日) 社頭掲示板 |
川上鹿塩神社 鍬 川上は加波加美、」鹿塩は加志保と訓べし、○祭神詳ならず〇中荘樫尾村、川上荘東川村、國栖荘南國栖村等の堺に在す、今大蔵明神と称す、(大和志) 川上は吉野の川上をいふ也○古事記(応神段)於吉野之白梼上(契沖云上は生の誤か)作横臼而、歌曰、 加志能布邇、余久須哀都久理、余久須邇云々、とある白梼生の地なりと、宣長は云り、 類社 近江國甲賀那石部鹿塩神社 神社覈録 |