大名持神社
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   【延喜式神名帳】大名持神社(名神大 月次/相嘗/新嘗)大和国 吉野郡鎮座

   【現社名】大名持神社
   【住所】奈良県吉野郡吉野町河原屋86
       北緯34度23分37秒,東経135度52分8秒
   【祭神】大名持御魂神 (合祀)須勢理比当ス 少彦名命
       「明細帳」には大名持神・大名持御魂神・后神須勢理比盗_・少名彦名神 明治24
       『神道大辞典』少彦名命の祭祀は後代の合祀

   【例祭】10月17日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観元年(859)正月27日正一位『三代実録』
       大和国で神階がこの神社を超えているのは春日神社一社のみ

   【関係氏族】
   【鎮座地】古来より妹山を祀ってこの地に鎮座する

   【祭祀対象】妹山を神体山として祀る
   【祭祀】中世は「妹背神社」と称す
   【社殿】本殿素木の神明造萱葺
       拝殿・社務所・神饌所・祝詞殿・宝庫

   【境内社】水神社・若宮神社・金毘羅神社・稲荷神社
   【神宮寺】現社務所の位置に神宮寺の大海寺があり、今の社宅の背後に経藏もあつたが、明治初年廃された

吉野川の岸辺にそそり立つ妹山の山麓に鎮座する。妹山は黒雲母千枚岩、絹雲母千枚岩、石英片岩等の岩石からなる小孤立丘陵で、標高260m。こんもり茂る樹叢に覆はれ、全山特有の林相を示す原始林で、対岸の標高272mの背山と相対し、浄瑠璃妹背山物語の舞台になつた所である。西方上市の集落から眺めた山容は文字通り円錐形で、神体山特有の山形である。
妹山という名は忌山(イミヤマ)から起こったと想像されている。人工美林の吉野の山々の中で、しかも交通の便利な地のこの山だけが、原始林的樹叢を今日に残しているのは、その禁忌的信仰のためであろう。
天然記念物妹山樹叢は昭和3年3月に指定された。
本来はただ拝殿と鳥居のみで宮屋(神殿)を設けず神体山を祀る。
貞観元年正月に正一位の極位に叙せられ、大和国で神階がこの神社に超えているのは春日神社一社のみで、この時点で同一神階に上つたのは河内国の枚岡神社だけである。
現社務所の位置に神宮寺の大海寺があった。
神社下には、毎年6月30日に海水が湧き出るという古い言い伝えのある潮生淵( しおうぶち)があり、大汝詣りといって、大和国中(くんなか)の当屋の人が当神社に参詣し、ここで六根清浄の水浴をした。


大名持神社(大汝宮)

大名持神社は、吉野町大字河原屋、小字妹山に鎮座されている旧式内郷社です。祭神は、大名持御魂神(おおなもちみたまのかみ)・須勢理比羊命(すせりひめのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)で、鬱蒼とした妹山樹叢山麓に、氏子の崇敬を集めて奉祀されています。
 古くは龍門郷21か村の大社でしたが、明治十二年八月、河原屋外二十四か村の郷社とすることに群衆合議で変更され、現在は、河原屋・立野の氏神となっています。
 境内には、紀州大真公の奉幣料と里人の資材の寄進による石燈篭があります。また、神社下には、毎年6月30日に海水が湧き出るという古い言い伝えのある潮生淵(しおうぶち)があります。大汝詣りといって、大和国中(くんなか)の当屋の人が当神社に参詣し、ここで六根清浄の水浴をいたしました。
 妹山樹叢は当社神域に属し、昭和3年3月天然記念物に指定されています。昭和56年5月、吉野地方行幸に際し、陛下には妹山にお立寄りになられて親しく樹叢をご覧になられました。
 由緒沿革 
 創紀の年代は詳らかではありません。延長5年(927)に完成した延喜式神名帳によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神285座の中に『大名持御魂神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されました。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』ともいわれています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に「貞観元年正月27日大和国従一位大己貴神に正一位を授く」とあり、『大和志』(1735)にも「貞観元年正月授正一位」とあります。貞観元年(859)全国で新階・新叙の神社は267社に及んでいますが、正一位という極位を授けられたのは、わずかに大名持神社と河内国枚岡神社のみであり、伊勢神宮・宇佐八幡は別にして、山城国の上賀茂・下賀茂の神、鹿島・香取春日の諸神に次ぐ神階を授かった極めて神徳崇高な社です
 本殿は神明造萱葺で、桧皮葺神明造の拝殿・祝詞殿・神饌所清浄手洗所・宝庫・社務所が整備されています。境内神社は、本殿に向かって左 摂社の若宮神社(祭神事代主神)と右 水神社(祭神罔象女神)、本殿西側石段上 末社の金毘羅神社(祭神金山彦神)、稲荷神社(祭神稲蒼神)です。
 境内には22基の石燈篭があり、その中には「文化3年11月 大汝宮 紀伊大守大真公之奉賽料及里民之資材以両基改造也」と刻されたものや、延享元蔵子8月(1744)・明和甲申12月(1764)・文久元年11月(1861)・文化5年7月28日(1808)の記銘のあるものがあります。
 営繕について、正徳2年(1712)の御宮上葺の記録、天保2年10月(1831)の屋根替届書控、明治18年3月上棟の棟札が残っています。
 『大和名所図会』(1791)に「大名持神社 妹山にあり 山は河原屋村に属す。
境内に大海寺あり。云々」 とありますが、神社東南方にあった神宮寺の大海寺は、明治維新の神仏分離で廃寺となり、わずかにその跡が残っているのみです。かって斎祀した熊野曼茶羅の旧日本地仏十二社権現像十二躯は、仏国寺(河原屋)にまつられています。  祭典は2月26日(祈念祭)・7月10日(夏祭)・10月17日(例祭)・12月2日(新嘗祭)です。
 大汝詣り
 吉野川行きとも言われた大汝詣りは、桜井市内(旧多武峰・朝倉・安倍・香久山の村村や桜井町)の社の祭を執行するに先立って、当屋の者がこの神社に参詣、社前の潮生淵で六根清浄の水浴をし、神酒口に水を汲み、吉野川原の小石を持ち帰って神事に用いた 海水で穢を祓う潮垢離(しおごり)のことです。『吉野名勝志』(1911)に「昔時神宮寺あり大海寺と称せり。寺廃されて倉庫一棟存す。潮生淵は社前吉野川の辺に在り古へ3月3日、6月晦日潮水湧出すと云。周囲約二〇間許り、明治18年巌石を除きて其跡を滅せり」とあり、『大和志』に「社前有潮生淵。毎歳6月晦潮水湧湧故名」とあることから、少なくとも享保の頃に海水が湧くという伝説があって、その頃より続いた行事と思われます。
 妹山
 妹山は、斧鉞を絶つ神聖な山です。「妹山の土は生きている。だから木も毎日様子が変わる」と今も信じられています。また、山頂には池があるという言い伝えも残っています。これらは妹山を神秘な山とした信仰から生まれたもので、妹山という名は忌山(イミヤマ)から起こったと想像されています。そして、人工美林の吉野の山々の中で、しかも交通の便利な地のこの山だけが、原始林的樹叢を今日に残しているのは、その禁忌的信仰のためだといえます。
 鬱蒼とした妹山樹叢は、昭和三年 天然記念物の指定を受け今日に至っております。山中には、ツルマンリョウ・ルリミノキ・テンダイウヤク・ホングウソウ・ホングウシダなど、珍稀な温地性植物が繁茂しています。特にヤブコウジ科に属するツルマンリョウは東亜固有の植物で、わが国では、屋久島・山口県とこの地のみに成育する珍しいものです。 山腹一帯にはアラカシ、イチイガシ、ツクバネガシ、カゴノキ、ツブラジヒ、スタジヒ、サカキなどの常緑広葉樹・山頂には自然性のヒノキの群落がヒトツバ・ウラジロなどを下草として繁っています。
 ちなみに、ツルマンリョウの学名アナムティア(Anamtia stoIonifera Koidz)は大名持神社の名にちなんで小泉博士が命名されたものです。
 大頭入衆日記
 大頭入衆日記(上田龍司氏所蔵)は、正中二年(1325)から大永8年(1528)までと、享禄2年(1529)から、天正12年(1584)までの龍門郷鎮守大宮社の、大頭役になるための宮座座衆に入る記録で、例年の書き継ぎによるものです。上巻の最初に南北朝時代の四通の文書裏を用い、下巻に幕末の学者穂井田忠友の考証をつけている当地域随一の注目すべき文献です。
 「応永7年カノヘ タツ9月4日座衆百姓評定云 天満宮神主殿・大汝宮神主殿両人座敷事自今以後七日十日両度口仕可為御宝殿口役事名代子々孫々可被免貫者也 難然座敷事悉可不有退転可定申由之仍為後代状如件・・・・」の記録から、吉野山口神社(天満宮)と大名持神社が衆会祭を共催していたことがうかがえます。
 大般若経
 正平年間・龍門庄の惣領主牧尭観賞が楠木氏とともに河内国古市方面に転戦中、その執事の由良門羅雲祥が、凶徒退散・宝祚無窮・二親兄弟従類眷属等の離苦得楽と、自身の願望成就を祈願して、大般若経六百巻を写経し、当神社に奉納しました。各経巻首に『龍門庄大汝宮』の古印が朱印された経巻は、現在川上村運川寺に所蔵されています。
 妹背山婦女庭訓
おんなていきん  妹山と対岸の背山を舞台とした浄瑠璃の『妹背山婦女庭訓』は、明和8年(1771)に竹本座が再興されてうち出した傑作で、近松半二・近松東南・三好松洛等の合作です。 暴逆きわまりない蘇我入鹿を、知謀に秀でた中臣鎌足が退治していく大織冠物の一つです。
 妹山は太宰少武国人 背山は大判事清澄の領内で、領地争いで不和の両家の久我之助と雛鳥は恋仲である。しかし、雛鳥は入鹿に入内をせまられる。また、入鹿は、執心していた帝の寵姫采女の局が猿沢池に入水したというのは偽りで、実はその付人である久我之助がかくまっているものと疑い、疑いをはらすために、久我之助に出任せよと難題を命じる。つまりは、雛鳥を奪おうとしての謀りである。ついに雛鳥は、久我之助の無事を祈りつつ妹山の屋敷で母に首をうたせる。久我之助もまた雛鳥の幸せを願いつつ腹を切る。−帝への忠節と、雛鳥の命をかけて守った恋心に、二百年来多くの人々は涙を流したのです。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大名持神社(大汝宮)

もと竜門郷二十一ヶ村の式内郷社
祭神 大名持御魂神
    須勢理比当ス
    少名彦名命
延喜式神名帳に大和国吉野郡十座の一つとして明神大社に列せられ、大月次新嘗の官幣にあづかる。
貞観元年正月27七日正一位の神階を授けられた神徳崇高な神社である。
神社下の吉野川潮生淵に毎年6月30日に海水が湧き出るとの伝えがあり、国中地方から当社に参詣し、この淵で禊ぎをする大汝詣りが今日でも続いている。
神社の境内妹山樹叢は天然記念物に指定されている。
境内神社
若宮神社 祭神 事代主神
水神社   祭神 罔象女神
金比羅神社祭神 金山彦神
稲荷神社 祭神 稲倉神

社頭掲示板



大名持神社

▼大名持神社 奈良県吉野郡吉野町河原屋。旧郷社。俗にオオナンジと呼び、古くは大汝宮とも書いた。大名持神。須勢理比盗_・少彦名神を祀る。『三代実録』貞観元年(859)正月の記事に正一位の極位を授けられたとあり、延喜の制では官幣の名神大社に列せられた古社である。社地は妹山にあり、吉野川の清流を隔てて背山と相対する。 その風景の佳さは古くから聞え、『拾遺和歌集』に柿本人麻呂の歌として「おほなむちすくなみ神の作れりし、妹背の山を見るそうれしき」とある。少彦名神は古く背山に認られたもので、後に当社へ合祀したものとみられる。境内の潮生淵は、毎年3月3日と6月晦日に潮水が湧き出で、水垢離をとったという。例祭1月17日。

神社辞典



郷社 大名持神社

祭神 大名持御魂神 須勢理比咋命 少彦名命
創立年代詳ならざれとも、延喜式内の古社にして、清和天皇貞観元年正月甲申從一位大己貴神に正一位を授奉り、(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上官幣に預り(延喜式)神社覈録に「式三(臨時祭)、名神祭二百八十五座、大和國大名持御魂神社一座」とあり、龍円荘二十一ケ村の氏神なり(大和志、大和名所図会)、明治6年郷社に列せられ、毎年6月9月10日、8月16日、11月7日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
社殿は本殿、拝殿、神饌所、社務所、土蔵等の建物完備し、境内4225坪(官有地第一種)、地は妹山に在り、吉野川の清流を隔て、背山と相対し、風景佳絶古來著名なり、拾遺集に「大名持、少み神の作れりし、いもせの山を見るぞうれしき」又境内に大海寺潮生淵等あり、鹹水常に涌出せり(名所図会)
流れても妹背の山の中に落る吉野の川のよしや世の中(古今集)
流れてもうき瀬な見せそよし野なるいもせの山の中かはの水(続拾遺集)

明治神社誌料



大名持神社 名神大月次新嘗

大名持は於保奈母智と訓べし○祭神大己貴命○川原屋村妹山に在す、(大和志、同名所図会)、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和國大名持御魂神社一座、○日本紀神代巻上云、素盞嗚尊、遂到出雲之清地、於彼処建宮、乃相與■合而生児大己貴神、(旧事紀同じ)」古事記(神代段)速須佐之男命、宮可造作之地求出雲國、爾到坐須賀、共地作宮坐、此神娶刺國大神之女名刺國若比売生子大國主神、亦名謂大穴牟遅神、
類社
播磨國宍栗郡伊和坐大名持御魂神社、(名神大)当國蔦上郡、出雲國出雲郡、大隅國曽於郡大穴持神社、各一座、筑前国夜須郡於保奈牟智神社、能登國羽咋郡大穴持像石神社、此外出雲国意宇郡野城神社坐大穴持神社、同国神門郡多伎神社坐大穴持神社、
神位
三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和國從一位大己貴神正一位、

神社覈録



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