黒駒集落のほぼ中央、吉野川の左岸に突出した小丘陵上の、御霊神社相殿神として鎮座。 本殿の東北50mに磐境があり、岩坂神社と称する小祠あり、もとはこれを落杣神社の本殿としていた。 往古より坂合部村の氏神として大字黒駒字宮山に鎭座したが、嘉禎年間、霊安寺御霊神社より当社の森に御霊神社を分社勧請し両社を同一の場所に奉齋したが、何時しか落杣神社は磐境を残すのみとなり、御霊神社として知られて来た。 明治維新の際、古社復古として落杣神社の磐境附近を落杣神社の境内と定められたが祭神は御霊神社に相殿となった、いはば御霊神社に庇を貸して母屋を取られた。 落杣神社の祭神は不詳であるが大山祇命とも言われているが、現在神社は祭神として触れていない。 拝殿額には「御霊神社・落杣神社」と併記されている。 東側の斜面下に、高さ3m・幅4mの大岩(磐座)が有る。そこに「落杣さん」と呼ばれる春日造りの小祠が有る。元々はこの場所に落杣神社の祭神は鎮まっていたと伝えられている。 |
由緒 御霊神社御由緒 鎮座地五條市黒駒町376番地 御祭神光仁天皇皇后(聖武天皇皇女井上内親王) 奈良時代、大仏建立などの大事業を進められた聖武天皇の皇女として、717年にお生れになり、721年、5歳にして伊勢皇大神宮に斎宮として出仕、任終えて後、白壁王の妃となられました。 770年、白壁王(62歳)即位、第49代光仁天皇となられ、同時に内親王(54歳)は皇后になられ、翌年、御子他戸親王(11歳)も皇太子となられました。 けれども、翌年、巫ごの罪(巫女に天皇を呪う祈祷をさせた罪)で皇后を廃され、他戸親王も皇太子を廃されました。 更に翌773年、厭魅の罪(人を呪う呪いをした罪)で親子共に、流罪となり、大和国宇智郡の没官の宅の土舎に幽閉されました。 奈良時代末期の混乱と政権争いの中で、光仁天皇妃高野和新笠の御子山部親王(後の第50代桓武天皇)を擁立する、藤原朝臣百川の策謀によるものと伝えられています。 775年4月27日、母子とも逝去されました。又、配流のこの地で、御子をお産みになったと伝えられ、若宮火雷神として御山町に祀られています。 没後、都に天変地変相次ぎ、悪疫流行したため、母子のたたりと恐れた天皇は、翌年、600人の僧に金剛般若経を読ましめ霊を慰められました。 翌777年、勅使を当地に差し向け、墳墓を改葬し御墓と称し墓守を置いて守護させました。 その後、800年に勅使葛井王下向し、皇后の位に復し、霊安寺に御霊神社が建立されていくこととなります。(『御霊信仰』の起源) 1238年嘉禎4年2月、吉原・牧野両豪族の論争がきっかけとなって宮分けが始まります。御霊信仰が、盛んになり、宇智郡一円の氏神として、信仰をあつめるようになると、身近な所に御霊さんをお祭りしたいと願うようになってきた為、宮分けがすすみました。現在五條市内に祭祀される御霊神社は20社にのぼります。 当黒駒町に鎮座する御霊神社は、1238年、最初に宮分けがおこなわれた11社の内にあります。 当地に伝わる宮分け伝説によると、「阪合部地区の氏子は、当初犬飼に分祀する予定であったが、黒駒の落杣神社のあたりまでお渡りしてくると足が動かなくなり、この地に祀るようにと言う神意であろうと考え落杣の森にお祀りすることになった。」と伝えている。御神体が、箒などと言われることがありますが、古来、箒は、神の宿る神籬と通じていたためで、決して粗末な物の意ではありません。勿論、現在の御神体は、神像であります事を付記いたします。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
落杣神社 今、当社境域の元の社地と伝える位置に古墳の石室が露出したとみられる大岩を磐坐とする小祠があるが、俗に磐境大明 神と称し大山祇命を祀っている。 大正14年3月16日奈良県史跡調査会嘱託上田三平氏の「調査による」として「奥行九尺横四尺ニシテ前方後円ノモノナリ、上石ヨリ推セバ奈良朝以前ノモノナリ。往古此ノ地ニ居住セル氏族ノ族長ノ墳墓ニシテ、年月ヲ経ルニ従ヒテ地下ニ埋没ノ結果、信仰ノ対象物ヲソノ付近ニアル怪岩ニ移シ、後世更ニ其処ニ祠ヲ建テタルナリ、コレニヨリテ考フレバコノ宮山ハ往古ヨリ霊物ノ俗念ノ有セシコトヲ知ルヲ得ルナリ。 士俗コノ小祠ヲ岩神様ト称ヒテ信仰ス」とある(当神社取調書)。 社頭掲示板 |
落杣神社 鍬 落杣は於智曽麻と読り○祭神在所等詳ならず 大和志、同名所図会云、或曰黒馬村、今称御霊、 神社覈録 |