境内に「為志神社遺蹟」の石碑あり。近世は十二所権現と称していた。明治43年(1910)葛城坐火雷神社に合祀(相殿合祀)される。この時旧地に「為志神社遺蹟」の石碑を建てる。昭和57年10月に旧地に復して再建。 社名はヰシと訓むようであるが、忍海(オシヌミ)からの転訛とか、忍志を為志に誤記したとか、社名のいわれはよくわからない。 |
為志神社遺蹟石碑由来 式内古社 為志神社は伊古比都幣尊祭神として古く栄え延喜式には忍海郡二社の筆頭に記載されている由緒正しい神社で久しくその尊厳を発揮してきたが明治39年の勅令社寺合併令により明治43年2月8日をもって式内大社葛木坐火雷神社に合併されて今日に至った しかるに廃社の後人々は社殿の跡に為志神社遺蹟の石碑を建てあたかも神殿に対するが如くこれを崇敬してきたのである 人々の志実って社殿を再建し祭神を還しここに式内小社為志神社の再建が成就したあとなり為志神社遺蹟の碑を温存する所以である 昭和57年10月17日 式内社為志神社 再興発起人一同 社頭掲示碑 |
為志神社 林堂集落北方にあった神社。現在跡地に為志神社遺跡の石碑・小祠・石灯籠などが残る。明治43年(1910)葛木坐火雷神社(新庄町)相殿に合祀。祭神は伊古比都幣命(伊毘志都幣命か)。「延喜式」神名帳の忍海郡「為志神社」に比定されるが、近世には十二所権現と称し、大彦命以下十二紳を祀っていた(社記)。社名の為志は忍海郡の別称飫斯(おし)(日本書紀 皇極天皇元年是歳条)の転音とも、忍志(おし)の誤写とも推定されている。なお平安時代に葛下郡・忍海郡の境界近くに石井荘があったが、現新庄町寺口付近に比定されている。 寺院神社大辞典 |
爲志神社 爲志は假字也〇祭神詳ならず〇林堂村に在す、今十二所権現と称す、(大和志、同名所図会)、 神社覈録 |