葛城二上神社
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   【延喜式神名帳】葛木二上神社 二座(大 月次/新嘗) 大和国 葛下郡鎮座

   【現社名】葛城二上神社
   【住所】奈良県葛城市染野691
       北緯34度31分33秒,東経135度40分39秒
   【祭神】大国魂神 豊布都魂神
       『神社覈録』に「祭神武甕槌命、大国主命」
       『神祇志』には、「紀豊布都霊神、大国神」
       明治5年(1972)「明細帳」右(東)に豊布都霊神、左(西)に大国魂神

   【例祭】7月25日 例祭 10月25日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代等不詳
       貞観元年(859)正月27日従五位上『三代実録』
       嘉永5年(1852)4月社殿再建
       明治3年(1870)3月拝殿再建
       明治6年(1873)4月郷社
       昭和49年(1974)二上山大火のため社殿焼失
       昭和50年(1975)再建

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地と思われる

   【祭祀対象】 
   【祭祀】江戸時代は「権現」と称す
   【社殿】本殿朱塗春日造、銅板葺、向拝つき
       

   【境内社】
   【別当】明治初年の神仏分離の際には、当麻寺が別当職であつた

標517mの雄岳、474.2mの雌岳の二つの峰は、古來「二上山」「二神山」「岳(獄)」などと呼ばれ、古代人は、これを男女の二神に見たてで崇敬したとも伝えられる。神社は今、雄岳の山頂に鎮座している。
豊布都霊神が石上神宮に、大国魂神が大和神社に勧請されたという伝承がある。
明治3年(1870)では雄岳に豊布都魂神を雌岳に他の一神を祀るとするも雌岳の祭神不詳。4/23は「岳登り」と称して山岳信仰の古伝を伝える。古来干魃つづきの時には、岳郷の人々によつてこの社に雨乞が行なわれたが、「獄の神様のぼりがお好き、のぼりもてこい、雨ふらせ」と口々に叫びつつ山頂めざしてのぼつたという。
二上山はサヌカイトと言う刃物向きの石器素材の産出地として名高い。 二上山の頂上まで斜めにサヌカイトの層があり、この優美な山の形、大和と河内の境の立地、実用的な石の産出、と言う条件が揃っており、 おそらくは縄文時代以前から人々が暮らしていたのであろう。二上山そのものが地下から盛り上がり、これを天磐船と称するとの伝承もあり(これは矢田坐久志玉比古神社にも磐船石の説明にあった)、 物部の遠祖饒速日尊が降臨されたと言う哮峰とは二上山のこととの説もある。
神社の本殿は昭和49年の山火事で焼失しており、今は榊の神木を小さい社殿が取り巻いている


葛木二上神社緒

二神協力して殖産興業を守り給ふ、古来葛木二上大権現と称名して修験道者の尊信篤く、雌雄二峰契りも深く縁結びの神としても霊験あらたかなり。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



葛木二上神社

祭神 豊布都霊神 又の名 建御雷神 
   大國御魂神
豊布都霊神又の名を建御雷神と申して大国主命と国譲りの談合の結果、その御子、建御名方神と海辺で力競べの角力を取り、この問題を解決された神で、この角力は日本の名勝負の第一に挙げられています。現在武道体育の神として祭られています。
大国御魂神は建速佐男神の御孫で非常に温和な神で、専ら冨国9に努力され、星祭の神つまり厄除けの神として祭られています。
この二神を総じて、文と武の神、縁結びの神として、あがめられています。

社頭掲示板



葛木二上神社

二上山(雄岳)山頂に鎮座の神社を式内大社に比定され、豊布都霊神と大国魂神 を祀る。『三代実録』貞観元年(859)正月27日に神階従五位下から従五位上に昇叙され、『延喜式』神名帳には、大社に列せられている。『大和志』に、権現と称したとあるが、中世以降は当麻寺が祭祀を掌っていたとみられる。当麻寺中之坊所蔵の「当麻寺付近絵図」にも雄岳の神社を二上山権現、雌岳の祠を神蛇大王と記している。明治初年の神仏分離まで、当麻寺がこの社の別当寺であった。
『西国名所絵図』に、例年3月23日の祭典には、「薩州の修験者が当麻寺の僧侶とともに、護摩供を修法す。是、近村より請じて、五穀成就の祈りをなすと聞ゆ。此日は山上にて酒の上温、肴の煎売、或は覗き、からくり、放下師なんど出て賑わし、隣村の老若男女嶮岨をこととせず登りて群集す。此の旬の法会というべし」とある。
古来岳郷と称した山麓六六か村の神体山と仰がれ、この日岳上りの風習があった。旱魃続きの時には、岳郷の人々によってこの社に雨乞いが行われたが、「岳の神様のぼりがおすき、のぼりもてこい、雨ふらせ」と口々に叫んで山頂を目指したとのことである。
社前に近く大津皇子の墓がある。

奈良県史



郷社 葛木二上神社

祭神 豊布都靈神大國魂神 本社創立年代詳ならず、神社覈録に「祭神武甕槌命、大国主命」と見え、大和名所図絵に「西誉記云、二上嶽坐豊布都靈神社、亦名武雷尊、大将軍坐大國魂尊とせり。権現の社として知らる(大和志、大和名所図絵)清和天皇貞観元年正月甲申從五位下より從五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)明治6年郷社に列せられ、凡毎年3月23日6月7日に祭を行ふ(奈良県神社取調書)。
社殿は本社、拝殿等の建物を備へ、境内僅に78坪(官有地第一種)あり、本社地は嘗て葛城山の西嶺二上山の頂上にありしも、今は染野の東方に位す。

明治神社誌料



葛木二上神社

かつらぎふたかみじんじや 奈良県北葛城郡当麻村染野。二上山の男嶽頂上。旧郷社。豊布都魂神・大国魂神を祀る。二上権現ともいう。「大和名所図会」に「酉誉記云、二上嶽坐豊布都霊神社、亦名武雷尊、大将軍坐大国魂尊とせり、権現の社として知らる」とみえる。貞観元年(859)従五位上を授け(『三代実録』)延喜式大社・祈年・月次・新嘗の案上幣帛に預かる。古くから毎年4月23日「嶽登り」と称して山岳崇拝がある。大和にはダケ・ダケ山と呼ばれる山があり、「嶽の山に雲がかからねば雨が降らぬ」といわれ、二上山麓の村々では「嶽の権現さん幟がお好き、幟持ってこい雨降らす」という俗謡があり、幟・提灯をもって雨乞いのため、二上山に登ったという。またこの獄登りは周囲の村々がみな弁当を携えて嶽に登り、一日行楽に過ごすそうである。『西国三十三所名所図会』にも「この日は山上に酒の上温、肴の煮売、或は覗からくり、放火師など出て賑はし」とある。

神社辞典



葛木二上神社二座 並大月次新嘗

葛木は前に同じ、二上は布多賀美と訓べし、〇祭神 武甕槌命、大國主命、〇当麻村西北二上山嶺に在す、今権現と称す、(大和志、同名所図会)、
大和名所記に、酉誉記云、二上嶽坐豊布都霊神社、亦名武雷尊、大将軍坐大國魂尊、
類社
因幡國巨濃郡二上神社

神社覈録



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