創建当時の祭神は、火之戸幡姫命で、布を織る人々の信仰の対象であり、神社附近には布織集落が多かったことが推察できる。 当時多くの神社は武人の神であったのに対し、火幡は唯一産業新興祈願の神であり、広く庶民の信仰を集めていた。 境内の広さ、神を祀る拝殿への参道等、大社を思わせる作りであり、貞観元年(西暦859年)正月には従五位を授けられている。現在の本殿は神明造りの三間社で屋根は桧皮葺であるが、創建当時は朱塗りの社殿で緑に映え、荘厳なものであっただろうと思われる。 |
火幡神社 火幡神社は、社伝によると平安時代前期大同元年(西暦806年〉に創建されている。 創建当時の祭神は、火之戸幡姫の命で布を織る人々の信仰の対象であり、神社付近には布織集落が多かったことが推察でぎる。当時多くの神社は武人の神であったのに対し、火幡は唯一産業振興祈願の神であリ、広く庶民の信仰を集めていた。 境内の広さ、神を祀る拝殿への参道等大社を思わせる作りであり、貞観元年(西暦859年>正月には従五位を授けられている。 現在の本殿は神明造りの三間社で屋根は絵皮葺であるが、創建当時は朱塗の社殿で緑に映え荘厳なものであっただろうと思われる。 広大な敷地に摂社がある。戦国乱世の時代に五殻豊穣の神などが合祀され現在の祭神となっている。 社頭掲示板 |
火幡神社 葛下川西方の森に鎮座。旧村社。『延喜式』神名帳葛下郡の「火幡神社」に比定。大同元年(806)伊予国で10戸の紳封を与えられ(新抄格勅符抄)、天安3年(859)一月27日従五位上に昇叙(三代実録)。社伝ではもと火之戸幡姫(ほのとはたひめ)を祀っていたという。『大和志』に『大幡神社』として『大三代実録作火(中略)在畠田山上邑今称八幡与送迎香滝共預祭事又小黒邑白山祠尼寺邑厨祠乃大幡神社摂社也二邑倶属畠田」とあるが、『大幡』とした資料はほかにない。また九条家本『延喜式』はホタと訓ずる。近世には正八幡宮と称し(石燈籠)、畠田大黒垣内の白山姫神社、現奈良県香芝市尼寺の厨神社を摂社としていたと伝え、現拝殿は南西方の明神山にあった大日霊貴(おおひるめむち)を祀った神社から移建したという。 寺院神社大辞典 |
火幡神社 山上のすべてと小黒・送迎(ひるめ)の一部の氏神で、明神山参道を境に白山姫神社と氏子域を二分しています。『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』には、大同元年(806)に伊予国10戸の神封を火幡神に与えるという記事があり、平安時代にはすでに存在していたことがわかっています。本来は火幡神を祀り、すぐれた織物・機織を意味する火幡・秀幡・秀機(いずれも「ほはた」と読む)という言葉から、養蚕・機織を担う集団に祀られたのがはじまりとも考えられます。 火幡神社のなかで最も古い灯籠は、拝殿石段下の西側にあるもので、元禄9年(1696)に畠田村の人々によって奉納されています。現在の拝殿は昭和46年(1971)に再建されたものですが、それ以前の拝殿は明神山の山頂に建立されていた送迎太神宮の拝殿を移築したものであったといわれています。鳥居前にある石灯籠は、天保2年(1831)に大坂の人々が送迎太神宮(ひるめだいじんぐう)に奉納したもので、送迎太神宮が撤去された後、この場所に移されてきたと考えられます。また、江戸時代にはナモデ踊りが行われており、かつては踊りに使用した太鼓などが残されていました。 王寺町HP |
火幡神社 名神大月次新嘗 火幡は保波太と読り○祭神詳ならず○畠田山上村に在す、今八幡と称す(大和志、同名所図会)〇式三(臨時祭)名神祭二百八十五座、大和国火幡神社一座、考証云、畑村、日留女村、火之戸幡姫命、」大和志云、與送迎香瀧共預祭事、連胤按るに、この日留女と送迎、畑と畠田は同所の事か、いまだ土地に行ぬば知らず、又按るに、当郡大畠村といふあり、然れば大幡にて、此村に由縁あらんか、又按るに、大幡神社は佐渡国賀茂郡に同称の神社あり、共に於保波にて、大庭造の祖神にはあらぬか、相模国高座郡大庭神社等考へ合すべし、 神位 三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授大和国從五位下火幡神從五位上、 神社覈録 |