鹿島神社
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   【延喜式神名帳】深溝神社 大和国 葛下郡鎮座

   【現社名】鹿島神社
   【住所】奈良県香芝市下田西1-9-3
       北緯34度32分32秒,東経135度42分15秒
   【祭神】武甕槌命
   【例祭】1月6日 例祭
   【社格】
   【由緒】承安2年(1172)この地に勧請 社伝

   【関係氏族】不詳
   【鎮座地】この地は深溝の名にふさわしく式社があったと思われる
        深溝神社がいつ失われ鹿島神社になったのか不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】古くより鹿島神社とされ式社の伝承もない
   【公式HP】 鹿島神社
   【社殿】本殿春日造桧皮葺
       祝詞殿・渡殿・拝殿・宝蔵・祭器庫

   【境内社】
   【参考資料】 鹿島神社

JR香芝駅と近鉄下田駅との間、街中の平地に鎮座する。承安2年(1172)この地に勧請と伝う。深溝神社は由緒、所在、一切不詳。如何なる書も「不明」として処理している。鹿島神社が深溝神社であるとする史料は存しないが、状況より深溝神社とする説が多い。
当社に深溝神社の表示無し、式社表示なし。


志賀剛氏の説

鹿島神社は下田の西部にあつて鬱蒼たる森の廣さは、一町四方に及び、高田市の式内石園坐多久豆玉神社の如く條里制の一坪(一町歩)を占めてゐる。(中略)下田は式社のある加守、穴虫、畑浦ヘ各々半里程あつて、式社分布の原則にも合ふ地点である。この上、この地は深溝の名にふさはしい地帯である。下田の東西を堺する鳥居川も葛下川の本流も堀川で、深溝川といってもよく、大和の川に多い堤防がこの地に無いのもこの故である。(中略)以上によつて、下田地方一帯は深淵(溝の誤か)郷とも称すベく、その西部の森ノ町の鹿島神社は式社深淵(溝の誤か)神社と断定して間違いないであらう。森ノ町の森も鳥居川も鹿島座もすべてこの式社に因む名であらう。

式内社の研究2




宮座

鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管されている。

 



鹿島神社

ー御鎮座伝承ー社殿当社の創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣であった鎌田政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の御分霊を勧請したのが始まりとされます。
当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)によると、平治元(1159)年、平治の乱にあって源義朝が平清盛に敗れ、東国へ敗走中に義朝の第一の家臣であった鎌田兵衛藤原政清の舅 尾張国(現、愛知県)半田郡野間の長田庄司忠致に匿われました。 しかし、忠致は恩賞目当てに義朝を浴場で暗殺、政清も忠致の子景致に殺害され、随行家来の大半は討死致しました。鎌田政清の子・政光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神宮に辿り着いたとされています。 そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼夜一心に法華経を誦唱しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏栄え、汝の福 西にあり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いました。大和の下田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松の木の下で野宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思いここに小祠を建て鹿嶋大明神を祀ったといわれます。
また、平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある『葛下郡 深溝神社』は現存せず、各分野の識者・学者の調査や歴史的な考察により当社がそれに当てはまるのではないか、との説もあります。 いずれにしても、往古からこの地の守り神≪鎮守の杜≫として広く皆様から親しまれ、大切にされています。 時代が移り、人が変わっていく中でも、太古より受け継がれてきた「鎮守の杜」は変わりない姿でいつまでも私達を見守って戴いています。 現在の本殿は大正年間に造営、拝殿・絵馬殿・山車殿は昭和58年に改築され、社務所は平成2年に新築しています。※鹿嶋文書を含め宮座関係文書は県指定文化財にされており、奈良県国立博物館にて保管されています。

公式HP



深溝神社

深溝は不加美曾と訓べし○祭神在所等詳ならず

神社覈録



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